板書は、単に黒板に情報を書き出す行為ではありません。発問を起点とする対話を重ねながら、生徒の思考を引き出し、そのプロセスを可視化し、学びを組み立てていくために行うものです。学びをどう設計するかによって、板書のあり方は大きく変わってくるということです。
黒板に書き残されたものを分類してその割合を観察してみると、授業設計(学ばせ方)の特徴が見えてくることがあります。説明などを経て最終的に導かれた「答え」や「結論」だけがノートに残っているようならば、板書だけでなく、授業のデザインから見直す必要がありそうです。
2015/10/28に公開した記事を再アップデートしました。

❏ 導き出された結論や正解しか残っていないのでは…
説明や発問が口頭だけで行われ、板書されるのは結論だけ、という状態では、課題を解決するのにどのような工程を経たか、そこでどんな知識や考え方を用いたのか、生徒は自分のノートに残しにくくなります。
すべてその場で記憶に収めるというのでは、学習者にとって負荷が大き過ぎますし、必要なことは自分でメモにとれという要求も、段階的な指導を経てからのことでしょう。(cf. ノートにメモを取らせる指導)
学びを重ねる中、同じ問いに同じ答えを導く必要は、定期考査などを除けばほとんどないはず。再現できるようになるべきは、解を導くための手順やその根底にある考え方、解決のために使った道具(知識)です。
そうしたプロセスやツールを、身につけるためには、経験/使ってみた後での復習(幾度か参照することでの「再記銘」)が必要です。
ノートに残っている情報は最終的に導き出された正解だけであったとしたら、再記銘を図ろうにも拠り所とするものがないということです。
これでは「答えを丸暗記する」しか、取り組みようがありません。答えを出す過程に十分な意識を向けず、「板書された結論や正解を写して覚えれば良い」という間違った姿勢を学習させてしまう危険もあります。
❏ 黒板に書き出さないものは、ノートから再現できない
生徒が必要に応じて想起する必要があるものは、思い出せなくなったときに備え、常に再記銘が図れる状態にしておかなければなりません。
教科書に書かれていることなら読み直させれば済みますが、それ以外のことはノートやプリントに書き残させるようにする必要があります。
ここで意識しておきたいのは、「何を書き残すべきか」を広く捉えること。結論や正解を導き出すまでには、生徒に問い掛け、考えや気づきを引き出したりしているはず。これらも学びを構成するパーツです。
先生が発した問いも、生徒が発言したことなども、当然ながら教科書には印刷されていません。ノートに書き残さなければ、想起できない(=別の場面で再利用、応用することができない)ことになります。
先生が板書すれば、生徒は自ずとノートに書き写そうとするもの。こうした「問い」や「発言」も、板書すれば生徒の手元に記録が残ります。
ノートテイクのスキルと姿勢が身につくまでは特に意識して、「生徒が後から想起・再現する必要があるものを、過不足なく書き出し、生徒の手を使って書き写させる」ことを徹底したいものです。説明にしても、プリントに印刷して、口頭で触れるだけでは、記銘の力は弱めです。
❏ 聴いたことを書きとめる≠考えたことを言語化する
思考のプロセスを、冒頭のイラストにある「C」として、しっかり残すには、板書にいたるプロセスが重要なカギを握ります。
ただ板書して書き写させれば良いということではありません。生徒の思考を待たずに答えを先に板書してしまうのも避けたいところ。肝心なのは「問いかけて気づかせ、確認してから書き出す」という順序です。
説明を聞いているだけのときと、問いかけられて考えながら話を聞くときとでは、頭の働かせ方が大きく違います。問われれば、答えを見つけようと、持てる知識を動員しますので、既得の知識との関連付けをしながら、新しいことを認識の中に取り込んでいけます。
十分に咀嚼させてから引き出しにしまう(=ノートに残す)のと、流れ作業で箱にしまい込んでいくのとでは、収まり方も違ってきます。いざそれを取り出そう(思い出そう)としたときも大きな違いでしょう。
問いかけを通じて生徒に考えさせることは、新しい情報を受け取る準備を整えさせること。それを経てから板書することを「小さなサイクル」で繰り返してこそ、生徒は消化したものを取り込んで行けます。
ときには、結論部分を先生からは示さず、生徒自身でノートに書かせ、隣同士などで確認させるのも好適です。どんなことを書き込んでいるか観察し、不足があるなら「追加の問い」で気づきを補わせましょう。
問われて考え、不明が徐々に解き明かされていくという「ある種の快体験」を重ねていくうちに、生徒は「正解が整うのを待つ」から、「自ら知ろうとする」に姿勢を改めていくのではないでしょうか。
❏ 自分で考え、言語化したものがどれだけ残ったか
さらに重要なのは、D(イラスト右下)をどれだけ膨らませられるかです。理解形成や課題解決の工程を体験させたら、そこでの思考の流れを必要に応じて思い出せる状態に整えてこその学習です。「板書やプリントで示されたもの」を「自分で言語化したもの」で補完させましょう。
配布したプリントに書いてあっても、自分が関わらないところで起こされた文字には、十分な注意が向かないこともしばしばです。授業中の対話で気づいたこと、考えたことは、その場で自分の手を動かして書き留めてこそ、後になって、思考のプロセスが体験と結びついて蘇ります。
学びとは、学習の中での体験を再構成する中で形作られますが、結論だけではなく、中途のプロセスで考えたこと、気づいたこともまた重要なパーツ。教室の中での集団での学習であっても、個としての体験は、自分でしか認識も言語化も、記録もできないはずです。
訊いた話を書き留めるにしても、(ICレコーダーのように)機械的に語句を拾い上げるだけでは、未整理の情報があふれかえり、深く確かな学びにはなっていない可能性が高そうです。自分の言葉にまとめ直してこそ、記銘にも理解にも有利に働くのではないでしょうか。
❏ 生徒に書き起こさせたいものは板書しないという選択
先生が一から十まで全部を板書してしまっては、結局のところ生徒は写しているだけ、受動的な学習に終始してしまいがちです。
一方、学習者が初期段階にあり、ノートテイクのスキルや学習方策が未熟なときは、しっかりと書いて見せてあげる必要があります。
しかしいつまでもその段階にとどまっていては、学習者としての成長はありません。前のパートで述べた「自分の言葉で言語化する」という力も、先生がすべて板書してしまっては育ちようがありません。
板書しなかったことを自分で補ってメモを加えたり、自分の頭の中で考えたことを書き加えたりできるように、段階的に導いていくことも重要な指導目標の一つです。(cf. ノートにメモを取らせる指導)
タイトルにある「板書に残すもの」とは、生徒のノートに残したいものから、生徒自身に書き加えてもらいたいものを引いた「残り」ということでしょう。{伝えたいこと=板書すべきもの}ではありません。
❏「板書になく、生徒のノートにあるもの」をより大きく
ノート点検や机間指導などを機に、生徒のノートに書かれているものから、先生が板書したものを「引き算」してみて、その差分がどのくらい膨らんできているか、定期的に確かめてみましょう。
生徒が自力で(主体的に)学べる範囲が広がっているかどうかは、学習者としての自立に向かわせることができているかの指標の一つ。指導の成果を測るための貴重な材料(視点)になるはずです。
想定を超える素晴らしい書き込みや工夫などが生徒のノートに見つかることも少なくありません。生徒がどれだけ学習者として成長し、能動的に学びに参加したかを測るひとつの尺度になるはずです。
好適なノートを見つけたら「教材」としてクラスでシェアするのもお奨めです。授業内に得た情報をどう拾い上げ、どう「編み直す」(=編集する)かを、他の生徒にも学ばせていくことができそうです。
後編に続く。(未更新)
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一
