授業のスタイルは実に様々ですが、個々の授業を特徴づけるパラメータの一つに「問い掛けの多さ」があります。
教わったことを一つひとつしっかりと覚える努力も大事ですが、学び手の側からすれば、自らの気づきがないものを覚えるだけでは面白みもなく、自分ごととして学びに向かう意欲も維持しにくいかと思います。
調べさせたり、考えさせたりして、生徒が自ら気づいてわかったことをどれだけ多く出来るかが問われるところ。調べたり考えたりするきっかけを作るのは言うまでもなく先生からの「問い(掛け)」です。別稿の通り、「問い掛けの多い授業が良い授業」ではないでしょうか。
2018/07/05 公開の記事をアップデートしました。
❏ 形成した知識・理解のうち、生徒の気づきは何割?
ある単元を学ばせているときに、生徒が理解した(「わかった!」と思った)ことのうち、何割が「問われて考えて気づいたこと」かと考えながら、いくつかの授業を観てみるとピンと来ると思います。
先日、都内のトップ校をお訪ねして見学させていただいた授業は、まさに「問いで構成される授業」そのものでした。
問いを投げかけ続けることで思考を途切れさせないのは、見事な手腕であり、気づかせたことを言語化させることで、理解を確かなものにしていく進め方には、改めて「授業のあるべき姿」をみた気がします。
❏ 伝達効率を高めようとして学びの密度を下げているかも
教え込むより、調べさせて気づかせるでも書いた通り、伝達の効率を優先しようとすると「教えてわからせる」という手段に頼りがちです。
しかしながら、生徒の学びが受け身になったり、問題意識が十分に刺激されていなかったりすることで、単位時間当たりの学びの総量はむしろ減ることもあります。
じっと黙って机に座り、話を聞いているだけでは集中も維持できないのではないでしょうか。
大事なことを聞き逃しては、その先に新たな知を組み上げていくことはできません。cf. ボールを投げるのはミットを構えさせてから
先生の話を集中して聞かせるにも、問い掛けによって問題意識を刺激し続けること(=生徒のアタマに「?」を浮かばせること)が重要です。
❏ 自分で気づけたという快体験が次の学びへの動機に
同じ単元を学び、同じ項目を扱う場面でも、先生が説明して知識を伝えたときと、問い掛けを重ねて生徒の気づきを積み上げ、理解を形成したときとでは、学びの質にだいぶ大きな違いが生じます。
教わったのではなく、自分で気づいたという感覚はより大きな達成感をもたらし、次の学びに向けたモチベ―ションも大きくなるはずです。
教室は「知識を伝え、受け渡す場」から、「様々な学習活動を通して、体験で得たものを知に構成させていく場」に変わったのだと思います。
その中で、生徒は新たにものを学び、自分事としての課題を解決するのに必要となる知を「獲得する方法」を学んでいくと考えましょう。
先生が丁寧に説明して、不明点を取り除いてくれたとしても、自分で考えて何かを見つけられたという喜びには敵わず、もう一度味わいたいと思う快体験にもなりにくいのではないでしょうか。
❏ 問われてから気づくまでが、思考力を鍛える貴重な時間
気づきに至る前の「考えている時間」そのものに、大きな価値があると考えます。
所与の情報を既に知っていることと結び付けて、目の前に提示された事柄を理解しようとする中で、生徒は頭を使い、思考の方法を実地に身につけていきます。
自明なものと考えていることでも、改めて問われてみると、理由や背後のメカニズムをきちんと理解していないことも多いものです。
そうした「知らなかったこと、考えていなかったこと」に気付くことから、学びは生まれるのだと思います。
学ばせることを予め整理しておき、限られた時間の中でより多くのことを効率よく伝えようとすること(スライドの作り込みなども、その一つかと)が、学びの質を逆に下げている可能性もありそうです。
❏ 問いの立て方のモデルを示すのは、教室での発問
問い掛けを通じて、「問いの立て方」のお手本を見せていけば、生徒はそれを見て真似てみるうちに、自分なりの問いの立て方を身につけていくことができるようになります。
問いを立てることは思考することそのものですが、一つの技能である以上、その習得には先生がモデルを示す必要があり、モデルになるような問い掛けをバリエーション豊かに見せていきたいものです。
既定の手順に沿って必要なことを伝えるだけなら、動画を撮っておき、生徒の都合の良い時間に視聴してもらうのでも良いはずですが、それでは新しい学力観の下で求められる「学ばせ方」にはなり得ません。
問い掛けに予想外の答えや意見が返ってきて想定していなかった方向に話が膨らんでしまうこともありますが、それはそれで予定調和に終わらない、生き生きとした学びが実現したと言えるのではないでしょうか。
学んだことは、先生の説明の中にあるのではなく、問いに対して生徒が考えたことの中にこそあるのだと思います。
問い掛けて気づかせたことを、言語化させて固定していくという流れは「対話的で深い学び」の最も基本的な形態のひとつだと思います。
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一