言語化を通じて育む「振り返りのための相対化スキル」

学習における「振り返り」は、学びへの目的意識(主体的な取り組み)を引き出し、学習者としての自立に向かわせる上で欠かせないもの。
しかしながら、振り返りという行為そのものが、メタ認知・適応的学習力(21世紀型能力における「思考力」の構成要素のひとつ)を用いる高度な知的活動であるため、何の準備指導もなしにやらせたところで、すべての生徒がきちんと/的確に行えるわけではありません。

的確な振り返りができるように生徒を育むには、先生方からのフィードバックによるサポートも欠かせませんが、何より大切なのは「自らの取り組みとその成果を相対化」してみるトレーニングの機会の整備、彼我の違いを知り、そこでの気づきを言語化する練習の積み重ねです。

❏ 振り返りの目的は、成果のたな卸しと次への課題形成

自分の取り組み、作り上げた答えや作品、パフォーマンスなどを相対化できないことには、振り返りをさせてみたところで、「頑張った」「楽しかった」「難しかった」といった感想レベルを超えられません。
この段階に止まっている生徒に対して、先生方がフィードバックを通して、振り返りをサポートしなければ、「できるようになったことのたな卸し」も行えず、学びに対する自己効力感も高まりにくくなります。
また、「次の機会には、より良い結果を得るために、こうしてみよう」との展望を、合理的に描き出してくれるかにも、不安が残ります。
現行課程で「指導と評価の一体化」が強調されるようになりましたが、そこでの狙いとされている「進捗と改善課題を捉えた学び」や「学習の改善」も、自分の学びの相対化なしには実現しないはずです。

相対化とは、「彼我の違い」を知ることに他なりません。他の生徒の頑張りとその成果などに触れて、自分のものと比較し、どこに差があり、その原因は何かを考えることを重ねる中で、そのスキルが養われます。
この相対化を、先生方からの評価やフィードバックなしに、生徒自身ができるように育てていくことが、学習者としての自立に繋がります。
相対化のスキルは、良いものとそうでないものを見比べ、なぜ一方が良いと感じるのかを考え、言葉で表現してみる練習の中で培われるもの。
中には「直観」でできる生徒もいますが、それはセンスの備わった一部であり、多くの生徒には、言語化というプロセスが不可欠です。

❏ 日々の教室における「相対化スキル」を養う様々な機会

日々の教室においても「相対化スキルを養う機会」は随所にちりばめられており、言語化にも様々なバリエーションがあります。思いつくままに並べてみただけでも、次のようなものが出てきます。

  1. 様々な作品やパフォーマンスを観察しての比較評価
  2. 採点基準に照らして行う、自己答案や答案例の評価・添削
  3. 授業内外の発表機会などで行わせている自己/相互評価

これ以外にも、「問題を解決する方法をそれぞれ考え、その優劣を論じる」といった場面でも、様々な観点で、各々の意見を比較し、優れた点や問題となり得る点を理由と共に言語化する機会が持てます。
いずれも、日常の学習指導/教育活動の中で、既に生徒に課しているタスクでしょうが、的確な振り返りができる生徒に育てるための機会としての価値を認識しているかどうかで、その活かしかたが分かれます。
生徒が行った振り返りの結果(=リフレクションシートへの記載)にもしっかり目を通し、相対化と言語化がどこまでできるようになっているか(進捗と改善課題)を捉えましょう。
目を通したリフレクション・ログから、好適な記述を選び出し、教室でシェアすれば、「ここまで考察や内省ができている生徒もいる」ことを伝えることもでき、学びのコミュニティに相互啓発が働き始めます。

❏ 言語化と相対化は、思考・判断・表現の力を高める

現行課程でこれまで以上に重要になった「思考力・判断力・表現力」を育むにも、言語化と振り返り/相対化は大きな役割を担います。
言語化された他者の思考に触れることで、発想は拡大し、一人では導けない解に到達することもあることは言うまでもありません。課題を前に発動した「思考」は、対話による気づきの交換を経て拡張します。
言語化して書き出したものは、もはや「アタマの中にある漠然としたもの」ではありませんから、自分が書いたものを客観的に評価したり、批判してみることもできるようになります。
独りよがりにならず、広い視野で論理的に自分の考えを見直すことは、判断に際して正しい軸足を持つことにほかなりません。
論理的な矛盾に気づけば、そこを埋めるロジックを考えたり、埋めるべき隙間にはまる「足りないピース」を探し始めたりするきっかけになります。(すぐに答えが見つかるとは限りませんが。)
ときには、自分が書いたものに触発されて、それまで思いつきもしなかった発想を得ることだって少なくありません。(私自身も、このブログを書いている中で、しばしば体験しています。)
当然ながら、言語化の習慣を持てば、第三者の理解と共感を得るのに必要な表現力を高める(あるいは、高める必要を実感する)ことになります。周りの生徒の「表現」に啓発を受けての成長も小さくありません。

❏ 言語化させることで「学ばせる側」が得るメリット

様々な場面で生徒に考えたこと/感じたことを言語化させることがもたらすメリットは、学習者にとってのものだけではありません。
学ばせる側にとっては、生徒の内面で起きていることを覗きこむ「観察の窓」を開くことになるからです。cf. 活動させるのは観察のため
こうした気づきを持って欲しい、ここまで考えを及ばせてほしいという思いは、指導の場面のすべてにあるはずですが、その思いが達せられたかどうか確かめるには生徒自身の言葉に触れるしかありません。
生徒に言語化を求めることを習慣化し、その思いがどこまで達せられたかを常に知ることができるようにするのは、より良い指導の実現を目指す上での「課題」を形成するための土台を整えることだと思います。



この記事を最初に起こしたときの「きっかけ」は、前日の朝、たまたま観ていたテレビです。登場したのは、パラリンピックのメダルを狙う視覚障がい者である「アスリートママ」とそのお子さんです。
お子さんとのコミュニケーションでは「原因から結果まですべてを言葉にする」ことをルールにしているとのことですが、そのルールが、お子さんにもたらした成長は極めて大きなものだったようです。
例えば、友達と喧嘩したときも、感情的に相手を批判するのではなく、冷静に物事を整理しながら自分の思いをきちんと相手に伝えられるようになったとか。ちなみに、この言葉もお子さん(小学生)自身のもの。
この話に触れ、これまであれこれと考えていたことにスッと整理がついたような気がしました。「頭や心の中にある思いを言語という記号に置き換えることには実に様々な価値がある」と改めて感じた次第です。
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教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一