主体性の意味を正しく捉える

育成を目指すべき生徒像を描出するときに「主体性/的」という言葉がよく用いられます。教育目標の記述でも「主体性」や「主体的」の頻度は、かなりの上位にランクされるのではないかと思います。
しかしながら、その意味をきちんと定義して使っているかと言えば、必ずしもそうとは言えないのが現実。話し手も、聞き手も、自分の経験や価値観に照らして言葉を解釈しますので、一つの言葉を、コミュニティのメンバーが似て非なるイメージで捉えている可能性があります。
もし、先生方が使っている「主体性」と、生徒や保護者がイメージしている「主体性」が違うものを指しているとしたら、その獲得を図るための指導の捉え方も、先生方と生徒、保護者で違ってくるはず。もしかしたら指導に込めた意図も、正しく伝わっていないかもしれません。

❏ 「主体性」が指すものは3つの階層に存在

言葉(主体性)からイメージできるものを整理してみる観点には様々なものがありますが、一つの捉え方は、表層として現れる行動レベルと、その背景にある、手段の選択、目的の設定に分けてみることでしょう。

ざっくりと(多少の乱暴さに目をつぶって)言うならば、さしずめ、 

 もっとも浅い「表層」は、見かけの行動だけ、

 その次の「中層」は、プロセスのハンドリングまで拡張、

 さらに先の「深層」は、価値観や判断に基づくゴール設定の自律性

といった表現を当てることができるのではないでしょうか。
勿論、場面(行動領域)により様々な「説明/規準」があり得ますが、表層(行動)から深層(根っこの価値観)に分けるアプローチは、この言葉「主体性」に限らず、その正体を捉えるのに有効だと思います。

評価の観点に「「主体的に学習に取り組む態度」が加わった当初、発想に行き詰まってか、「手を挙げて発言すること」「タスクに真面目に取り組むこと」などを以て「主体性がある」と言い出す向きがありましたが、あれはこの「最も浅い階層」に止まる「主体性」でしょう。
手を挙げたり真面目に取り組んだりするのは悪いことではありません。ただ、それだけでは主体性獲得の「入口」に過ぎないという意味です。
そもそも、他者(≒先生方)の指示に従っているだけなら、それがどれだけ忠実でも、期待通りのアウトプットであっても、「従順さ」に過ぎません。言われたことをこなすだけ、自律や創造を大きく欠いた状態であれば、それを「主体」と呼ぶのは躊躇われます。

もう少し深い階層まで進むと、「学びのプロセスを自分でコントロールする」という要素が加わります。最初のトライで失敗しても、問題を見つけて、工夫を重ねて達成に近づこうと粘り強く取り組む。このことを現行課程では「主体的に学習に取り組む態度」と言っています。
タスクが与えられないと何もしない、やり方を教わっていないと「わかりません」とあきらめるようでは、この階層に届いていません。
山本五十六の「やってみせ」(手順も教える)ではなく、ジョージ・パットンの「やり方を教えるな」(目的は示すが、手順は考えさせる)の違いも、ひとつ前の表層と、この中層の違いを意識しているかどうか、という指導観の違いと言えるのではないでしょうか。
考査や模試の結果が出たときの振り返りで、次に向けた自分の目標(課題)を設定させたり、先に控える選択の場に何を準備して臨むかを考えさせたりすることでも、「主体性」の土台を別角度から養えそうです。

さらに進んだ「深層」には、目的そのものを自力で(自律的に)合理的に設定できる力がイメージされます。身の回りにある問題を見つけ出して、それを解決すべき「課題」に具体化できることまで含まれるはず。
より良い社会を形成する当事者として、当然に求められる資質であり、PISAが測ろうとしている「創造的思考力」(日本は調査に不参加)なども、この層での「主体性」なしには発揮できないものでしょう。
ゴールを設定するというのは、問いを立てることです。その練習の機会は、日々の生活、学習、進路の中にも持ち得るものです。当然ながら、そこでの取り組みと成果に基づき、評価もできるはずです。

異なる立場で書いた複数の資料を読ませる、様々な事物を観察させそこに疑問を見つけさせるといった活動も、素地の育成として好適です。

❏ 違う層に立っていたら、評価の結果も自ずと異なる

学校評価アンケートの集計結果を見ると、先生方と生徒、保護者の間で評価結果が大きく異なることが少なくありません。生活の規律や集団生活のマナー順守、主体性の獲得とそれに基づく行動の選択などに関する部分ではとりわけ大きな差が出がちです。
三者が同じもの(生徒の言動やその変化=成長)を見ているのに、評価の結果が違うというのは「基準」が異なるからに外なりません。質問文に含まれる言葉の解釈、評価対象となっていることへの理解が一致していない(=異なる「層」に立って対象を観ている)ということです。
ここでの問題は、「評価結果のズレ」だけに止まりません。同じ「主体性」「生活規律」でも想定しているものが違えば、先生方には「目標未達=指導継続/強化」との結論になるのに対し、生徒や保護者は「十分な水準、これ以上の指導強化は不要」となるのも半ば当然です。
こうした「認識の乖離」は、不信やストレスのもととなります。良好な関係を形成・維持するには、互いが同じ認識に立つ必要があります。
指導に込めた意図を正しく理解してもらい、言葉の一つひとつがちゃんと届くようにするには、指導目標に用いている言葉について、同じ層に立った(目線が一致した)捉え方をすることが、前提要件です。
主体性という言葉一つでも、何を指して使っているか、それを具現したときにどんな行動や姿勢が期待されるかを、しっかりと伝えましょう。

学校評価のデータでは、先生方の間でも回答に大きなばらつきが生じていることも少なくありません。先生方が皆「同じ層」に立っているとは限らないということ。先ずは先生方の間で言葉の解釈をすり合わせて、しっかりと目線を合わせた指導を展開しましょう。
表層で止まっていては不足なのは明らかです。現行課程の学習指導要領の要件を満たすなら、少なくとも「中層まで」、さらに先を見据えるのであれば、「深層」を意識した教育実践が求められることになります。
■関連記事:

教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一