生徒の思考力を鍛えられるのは「正解や解法を示すまで」です。答えや解き方がわかった後にできるのは、解に至る過程を辿り直して、「なるほど、そうか」と納得すること(+答えを覚えること)くらいです。
そこでは、答えを導き出すために重ねるべき思考(題意の理解/問題の発見、解法の考案など)の大半を、生徒は自ら体験できません。
答えを導くべき問いや解決すべき課題を与えたら、生徒が十分に思考を尽くすまで、不用意に正解や解法を与えてしまわないことが肝要です。
2016/10/05 公開の記事をアップデートしました。
❏ 課題解決は「思考を鍛える」という目的のための手段
思考力に限らず、あらゆる「力」は発動させてこそ鍛えられるものであり、持てる力を目一杯発揮してみないと、現状において「力の不足」がどこにあるのかを知ることもできないはずです。
思考は問いに触れて発動し、対話(周囲との話し合い、先生との問答などに加えて、テクストを介した先人との「対話」もあります)を通して拡充するものですが、先生が模範解答を示すことで生徒の思考を肩代わりしては、それを鍛える機会は失われてしまいます。
教室での問いや課題は、正解を知ったり、解決策を見つけ出したりすればOKというものではありません。それらを解くことを手段に、思考力を鍛えることができてこそ、与えた目的を達したことになるはずです。
21世紀型能力の中核をなす「思考力」に含まれる「メタ認知・適応的学習力」も、問いや課題に自力で取り組んでみて、反省点を見出してこそ、獲得が進むのではないでしょうか。
効率的に学習内容を理解させよう/授業を進めようとの思いが強く出すぎると、生徒の思考を待てなくなりがちです。生徒が思考力を発揮してそれを鍛える機会を、不用意に奪うことがないよう気を付けましょう。
❏ 模範解答を示された瞬間に生徒の思考はストップ
正解が示されてしまえば、「思考をそれ以上続ける必要や理由」を生徒は見出せません。その瞬間に、生徒の意識が「考えること」から「覚えること」に向きを変えてしまったとしても無理からぬところです。
教わったことはきちんと覚えて定期考査に備える、という意識と習慣をそれまでの学習の中で刷り込まれていたらなおさらです。
ましてや、教室の中では「先生は正解を知っている人」です。先生が示した正解を疑ってみたり、より良い答え/解き方があるはずだと粘ってみたりする生徒は、そうそういないはずです。
生徒は、多くの科目を並行して学び、予習・復習に宿題を多量に抱え、部活や遊びなどにも忙しい毎日を過ごしています。立ち止まって思考を続けるより、与えられた答えを覚えてしまった方が「効率的」と考えるのはある意味で合理的な判断かも。生徒を責めるわけにも行きません。
思考を継続させ、その力を高める機会を確保するには、先生方が、生徒自身が考えるべきことがまだ残っているうちに不用意に答えを示さないようにすることだと思います。
❏ じっくり考える時間は、授業時間外での確保が容易
限られた授業時間で単元を進めていく中、生徒が思考を尽くせていないと分かっていながら、時間切れで先に進まざるを得ない場面もあろうと思いますが、仕方なく正解を示してしまえば、そこで思考は終了です。
こうした局面でも、生徒の思考を一度中断させて続きは「宿題」とし、次の授業までに改めて考える時間を持たせる手だってあるはずです。
新課程への以降で、学ばせる事柄は減らずに、これまで以上に思考力・判断力・表現力の向上を目指すとなれば、授業内で行うことと、生徒が個人の学習活動(≒家庭学習)で行うことの切り分けが重要になりますが、「ひとりでじっくり考える」こともまた、教室を離れて行うべきことの一つではないでしょうか。
ただし、考えるのに必要な道具(既習内容の知識、課題に取り組むための発想と手順、必要な情報を得るための材料とその使い方など)が揃った状態で教室を送り出さないと、思考は始まる前にとん挫です。
授業内での思考や演習でも同じですが、授業外で生徒が課題に取り組む場(=思考の機会)を作るなら、「課題解決の場を整えたら、挑ませる前に理解の確認」の徹底を忘れないようにしましょう。
❏ ペアやグループの活動でもフリーライダーを作らない
生徒が十分に思考を重ねる前に答えを示してはいけないと申し上げてきましたが、「答えを示す」のは先生だけではありません。
ペアやグループでの話し合いでも、相手や他のメンバーが先に正解に行き着いた場合、自分で考え尽くす前に答えが出てしまいます。
教え合い・学び合いは重要ですし、躓きの解消には先生からの助言などより余程役に立つことも少なくありませんが、生徒が個々に考える時間を十分に取らないうちに、ペア/グループでの対話に移行しては、思考力を鍛えるチャンスは失われるばかりです。
また、個々に考え尽くした結果を持ち寄った対話で理解や気づきを膨らませたら、それらを携えて改めて問い/課題に向き合い、自分の答えを仕上げさせることも忘れないようにしましょう。その中で、思考はもう一段、深いところまで届き、思考力も鍛えられます。
マラソン中継をテレビで観ても走力が向上することはありません。自分で走ってこそ成果が得られます。学習の場でも、自分で考えて、知恵を絞ってこそ思考力が向上します。周囲が導き出した答えに「ただ乗り」しているようでは力は身につかないことを肝に銘じさせましょう。
❏ 正解ありきのアプローチも思考力の獲得を邪魔する
直接的に正解を示さずとも、正解に到達する最適ルートを知っている先生が、予定のルートに沿って生徒の思考を誘導するだけでは「解に至る工程を自力で考案する」という最も重要な部分を生徒は自ら経験できません。「正解ありきで教えていないか?」と常に自問しましょう。
うっかり「ここに補助線を引けば」「この記述に注目すれば」とヒントを出してしまえば、生徒は先生の誘導について行っているだけ。自分で考える必要性がなくなってしまいます。
受験会場では、目の前にあるテクストや問題文だけを見て、どこに着目し、手持ちの道具(知識や理解、過去に用いた解法や発想)をどう使うかを考える必要がありますが、普段の教室の中でも同じような場面を経験させていく必要があると思います。
回り道をしつつ、あれこれ思考を重ねて、ダメなアプローチをひとつずつ排除していく工程は、時に面倒くさく、誰かの正解に飛びついた方が楽と生徒は感じるかもしれませんが、この知的格闘を経験しないことには、思考力は養われません。
苦心して解法を見つけ出せたという「快体験」の積み重ねが、思考の楽しさを知り、物事を真剣に考えることへの意欲を高めていくはずです。
楽(らく)を理由に考える楽しみ(たのしみ)を脇に置いてしまうことがないように生徒を導くのが先生方のお仕事ではないでしょうか。
せっかく考えているところで正解を示されてしまったことに「何してくれちゃってるんですか!」と食って掛かるぐらいになったら、その生徒は学習者としての自立に一歩近づいてくれたということだと思います。
そもそも、「正解を教える」というアプローチは、既に最適解が判明している/解法が確立している問題にしか適用できません。正解が一つに決まらない問題や、解決の方策が未確立の問題が増えてくる中、「正解は先生が教えてくれる」という誤った認識を生徒に持たせないようにすることも、これまで以上に大切になると思います。
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教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一