生徒の学習活動を視点に考える板書のあり様
本シリーズのタイトルは「板書の技術」でしたが、ここまでに触れたことの中には、いわゆる「板書のテクニック」とイメージの異なるものが多く含まれます。これは、黒板が単なる伝達/情報提示のための道具ではないことの証左ではないかと改めて考えるしだいです。
最終回では、学習者側での活動まで視点を広げ、効果的で、且つ不要な弊害が出にくい板書のありようについて考えてみたいと思います。
2014/04/20 公開の記事を再アップデートしました。
❏ 先回りしては、生徒は学びの過程を経験できない
板書は、学びの過程で得たもの(単元内容を整理した結果、問いに解を導く手順、課題に取り組んでの気づきなど)を固定するのに行うものであるが故に、いったん板書してしまうと、生徒はそれを「修正の余地のない確定した結果(=覚えれば良いもの)」と認識し、それ以上の思考を止めてしまいがちです。
先生がうっかりと板書で先回りをしてしまうと、生徒は肝心な学びの過程(=学習活動)を十分に踏まないまま、提示された結果を覚えることに終始しがちです。「板書するのは、問い掛けで生徒に考えさせ、その結果を言語化させてから」を鉄則としましょう。
別稿でも書いた通り、単元内容(コンテンツ)を学びながら、21世紀を生き抜くための能力・資質(コンピテンシー)を獲得する、というのが新しい学力観であり、「板書の先走り」は新たな学びの目的達成を阻害する要因の一つになりかねません。
事前に板書案を考えて教室に臨むことは、学ばせる内容を整理・構造化し、伝達を確かなものにする上で欠かせないものです。(cf. #1)
しかしながら、それを単純に教室の黒板上に再現するだけでは、生徒は自ら答えを作り情報を知に編む工程を経験できず、その喜びを知る機会も持てません。正しい学びから遠ざかるばかりではないでしょうか。
❏ 生徒主体の学びでは、板書はダイナミックに変化
用意しておいた板書案に近づけることに意識が向きすぎて、その完成させる方向に生徒の発言を誘導したり、都合のいいものだけを拾い上げるのも変な話です。
発言が「先生の頭の中にある正解」という見えない基準に弾かれ、拾い上げられないことが続けば、発言へのモチベ―ションも下がって当然。
先生は既に動かさない結論を持っていると感じ取れば、生徒はそれを探り当てようとするのに腐心するか、自分なりの答えを持とうとしなくなるかのいずれかではないでしょうか。
板書は、生徒とのやり取りの中で作り上げていくものであり、板書案はあくまでも案。最終的にどう仕上がるかは流れ次第と考えましょう。
生徒の発言が微妙に的を外していたら、却ってクラス全体の学びを大きくするチャンスです。別の生徒の発言と黒板上に並べて書き出し、吟味させれば、着眼点やまとめ方、論理の作り方の違いから、より良い答えを作る手掛かりを見つけさせることもできるはずです。
特にこれからは、答えが一つに定まらない問題を扱うケースも増えてくると思います。生徒が作り出す答えを予想して板書案に反映しきれるものではありません。その場でのやり取り/対話で生まれる「ライブ感」を楽しんでしまうくらいの心づもりの方が良さそうです。
しっかり板書案を作りつつ、その再現にこだわらない。むしろ、生徒の発言に学びながら、より良い板書(=解を作り出した軌跡)を描いていくという考え方の中に新しい学びに沿った板書があるやも知れません。
❏ 繰り返し使うものは、スライドで作り込んでおく
ダイナミズムを活かすべき板書に対して、単元ごとの基幹理解を形成する場面など、どのクラスでも同じように教え、必要に応じて何度も参照させたいものは、スライドに仕上げておくのが好適です。
基幹となる知識・理解は、生徒との対話を経ても導くべき/到達すべき結果は変わりません。板書にかかる時間を節約すれば、その分だけ対話的な学びや様々な活動に振り分けることが可能になります。
スライドを整えておけば、教室で教えていて既習内容の理解不足が疑われるときにも、サッと映写することで、以前の学びの記憶とともに理解が再現できます。
なお、事前に作り込んだスライドも、「せっかく作ったんだから」と教室で使うことにはこだわらないようにしましょう。映し出すのは一瞬でも、生徒がじっくりみて理解するのには一定の時間がかかります。内容を消化しきれないうちに先に進まれては、モヤモヤが募るばかりです。
もう一歩踏み込むならば、解説動画も有効に活用したいところ。単元の基本事項の導入解説のみならず、教科書や問題集に載っている設問ごとの解説など、授業を構成するパーツとして予め作っておけば、様々な場面で効果的に利用できるはずです。
コロナ禍での一斉休校で、動画での解説授業の有用性が再確認されています。自分のペースや理解度に合わせて、繰り返したり、一時停止して考えたり、早送りで時短を図ったりと、生徒がそれぞれのスタイルで主体的に学ぶ姿勢を見せてくれたとのご報告も届いています。
❏ 生徒が紙と鉛筆でできることの限界も意識して
スライドや電子黒板、動画などは、動きのあるものをリアルにイメージさせることで生徒の理解を深めることができますが、学び手である生徒がテストに臨んで問題を解こうとする場面で使うことが許されるのは、まだ暫くの間は「紙と鉛筆」に限られそうです。
新しい道具は、思考法や行動様式も変えるだけに、いずれはPCを会場に持ち込んで、データの解析やシミュレーションをしながら解法を考えるようなテストも試されるようになるかもしれませんが…。
授業内ではICTを思考のツールとして積極的に活用させて、新たな道具を思考に役立てる方法を学ばせつつ、解法を考える場面では、紙と鉛筆(=黒板とチョーク)に立ち戻り、生徒が受験会場で実現できる方法を示していく必要もあるということです。
題意を理解して図に書き起こす場面、データを読み取りグラフに起こして仮説を立てる場面など、先生方がご自身に「黒板と白チョーク」だけという縛りを課して(生徒は試験会場ではHBの鉛筆かシャープペンしか持っていません)やれることを見せて行きましょう。
教室で使える道具がどんどん進歩しているのに、生徒が実際に問題を解かなければならない場面で道具に制限が掛かるのは、試験の仕組みそのものが歪んでいるからにほかなりませんが、そこに文句をつけても解消されるのはだいぶ先のことでしょう。
このシリーズの記事インデックスに戻る
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一