記銘のための反復は、課題解決に活用する中で
例えば古典の授業では、まとまりのある文章を題材にした読解指導に入る前に、文法をひと通り勉強させるという手順を採ることがあります。ある程度の体系的な文法理解を作ってからでないと読解に入ってからも躓きが多くてスムーズに進めないという思いからの選択でしょう。
英語でも、主教材と切り離して単語集や例文集を個々に覚えさせていくのは「普通」ですし、概説書をひと通り学び終えてから演習に入るのは大学の授業や資格試験などの勉強などでもよくあるパターンです。
でも、この方法が本当に成果をあげているのか、コストやリスクを超える十分な効果が本当に期待できるのか、いちど立ち止まってじっくりと振り返り、考え直してみる必要もありそうです。
2015/10/05 公開の記事を再アップデートしました。
❏ 課題解決に活用する場面を持たないと
文法学習を先行させるケースでは、本時/単元の学習目標を正しく認識するための「解くべき課題」もなく、作品の面白さによる支えもないまま、生徒は教わったことを覚えるのにエネルギーの大半を費やします。
また、次から次へと新しいことに学習が移っていく中、前に覚えた事柄の記憶が新しく学んだものに上書きされたり混ざったりします。
せっかく獲得した知識も、活用してみる場面なしでは、それを理解することが後になってどう役立つのか(生きて働くのか)実感できません。
解くべき課題があるからこそ、そこで用いる知識の必要性もわかりますし、使い方を含めたその項目の深い理解も形成できます。
単発の知識は記憶を繋ぎとめるアンカーを持たないだけに覚えた端から忘れていきますので、学びが積み上がる実感にも乏しいはずです。
❏ 覚えることが自己目的化するとつらいばかり
この段階の生徒は、先生が進める授業を信頼する以外に「学ぶ意義」を持てません。これで面白味を感じろ、というのも無理な注文です。
面白味もないところで覚える負担ばかり増えて、しかもなかなか覚えられないときたら、生徒の中でつらさだけが膨らんでいくのも道理です。
勉強が先に進めば、興味を持てる場があったとしても、その前の段階で科目に対してネガティブな印象が固まれば、学びから遠ざかろうという負のモチベーションが生まれてしまいます。
序盤での指導が、その意図に反して、学びへの意欲を損ねていないか、改めてリスクの大きさを考えてみるべきだと思います。
❏ “反復”はほかに手段がないときの「次善の策」
使ってみる機会がない知識は、意味の拡張(=こういう使い方もできるんだ、こんなところでも役立つんだという認識を広げること)が図られないため、どうしても断片的なものになりがちです。
その結果、記憶を定着させるためには、「反復」(別名「根性方策」)に頼ることが多くなります。
どんな場面で役に立つのかもわからない状態で、言われるがままに覚えることに、楽しさを覚える生徒はそれほどいないはずです。
別稿「勉強を好きにさせる学ばせ方」に書いた通り、前向きな学びの姿勢を引き出すには「何がわかっていないか確かめながら勉強する」 ことが重要ですが、「覚えたかどうか」に終始する反復方策はこの要素を欠く点に、大きな問題を抱えています。
❏ 教室で行使できる強制力は切り札~できるだけ使わない
この状態では、小テストや再テストといった何らかの強制力に頼らなければ、学習を継続させることは難しいはずです。
結果として、生徒の側では「やらされている」 という感覚(=やらされ感)ばかりが強調されるのも、無理からぬものを感じます。
強制してでもやらせなければならない場面があるのは承知しています。でも、切り札は、最後まで手の内に残しておいてこそのもの。
ほかに方法があるときに使ってしまっては、ここぞというときカードが手札に残っていないという事態が待っています。
❏ 実際の文脈の中でしか、参照知識の判別も学べない
課題解決と切り離された体系的/網羅的な学習には、項目があらかじめ意図的に配列されていることに起因するもうひとつ見落としがちな罠があります。
実際の文章を読みながら学んでいく場合、あるいは課題に解を導こうとする場合、目に見えるものを着眼点に問題文を観察し、どの知識を参照すべき場面なのか判別する必要があります。
これに対して、文法などを項目順に学び、その直後に練習問題で確認するだけの場合、この「判別の工程」はほとんど体験できません。さっき覚えたことを覚えていれば、それがそのまま答えでしょう。
古文で助動詞を学んでも、用法を判別できなければ本文は読み進められませんし、英語でも多義語の判別は文脈の中でしか練習できません。
あらかじめ体系化された教材で、ひとつひとつ項目を取り出し、順番に消化していくだけでは、経験できない学びがあるということです。
❏ 主教材で作った流れの中で参照型副教材を使い倒す
どの知識を用いるか判断の方法を学ぶ機会は、後で演習を重ねるときに用意しているから問題はない、との反論もあろうかと思います。
しかしながら、理解していない知識を無理に覚えても記憶には残りにくいもの。演習期に入ってももう一度覚えるところに立ち戻るケースが増えるばかりだとしたら、効率的なカリキュラムとは言えません。
演習期を迎えたときに、それまでちゃんと取り組んでいた生徒とそうでない生徒の間に、学力差を拡大しているだけかもしれません。
各単元で学習する内容が減らない中、基礎力や思考力といった様々な能力と資質を育んでいくには、カリキュラムの効率化が欠かせません。
主教材を進めながら並行して知識の体系化と拡充を図るには、「参照型教材を日々の授業の中で使い倒す」という戦略が最も有力なものになり得ると考えますが、いかがでしょうか。
その2に続く
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教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一