"正解を言って欲しい"と言う生徒
生徒や学生にアンケートで授業への感想を尋ねてみると「正解をちゃんと言ってもらいたい」という声がちらほらと混じります。先生は意図をもって敢えて正解を示していないのが傍からも明らかな場合にもです。ここから垣間見える問題は、「答えは与えられるものではなく、自分で作るもの」という発想をしっかり持っている生徒・学生ばかりではないということではないでしょうか。 2018/04/11 公開の記事を再アップデート…
当オフィスは、各地の学校で授業力向上や教育改善・学校改革のお手伝いをしています。
生徒や学生にアンケートで授業への感想を尋ねてみると「正解をちゃんと言ってもらいたい」という声がちらほらと混じります。先生は意図をもって敢えて正解を示していないのが傍からも明らかな場合にもです。ここから垣間見える問題は、「答えは与えられるものではなく、自分で作るもの」という発想をしっかり持っている生徒・学生ばかりではないということではないでしょうか。 2018/04/11 公開の記事を再アップデート…
先生が先回り/肩代わりせずとも、生徒にやらせてみればできることはどんどんやらせるべきだと思います。現時点では少しばかり生徒の手に余るようなことでも、「できるようになってもらいたいこと」なら、トライさせることなしに、出来るようになるチャンスを奪ってしまうようなことは、努々慎みたいところ。教科書や参考書に書かれていることだって生徒に自力で読ませれば理解できるはずですし、もしできない生徒がいたとしたら、…
当ブログでは「学ぶことへの自分の理由」という表現をあちこちで使っていますが、「自分」の反対は言うまでもなく「他人」です。先生方が入念に起こした学習指導計画も、生徒にしてみれば他人が考えるところに基づくもの。いわば「他人の理由」で作られたものであり、そこに「学ぶことへの自分の理由」を持てるとは限りません。内発的な動機(知りたい、解明したい、できるようになりたいといった欲求=自分の理由)から生まれた学…
科学の進歩や社会の変化で、新しい知識がどんどん生み出され、古いものは更新されていきます。学び続けていかなければ、正しい判断を重ねていく(=よりよく生きる)ことを、古い知識・常識が妨げます。卒業後にも自ら学び続けていけるように生徒を育てる/導くことは、各教科に固有の知識・技能を身につけさせたり、進路希望を実現させたりすることに劣らず、最優先して取り組むべきことだと思います。誰の周囲にも解決すべき問題…
どの教科、科目、単元でも言えることですが、生徒が「それらを学ぶことへの自分の理由」を持っていないことには、「深く確かな学び」を実現するための必須要素である「主体的な学び」は期待できません。能動的・積極的な学びには、目的意識と学びの方策の2つが必要です。目的意識をもって学びに取り組んでいるか、学習方策の獲得はどこまで進んでいるかによって、取り組みもその成果も違ったものになります。新年度に始まる新たな…
本来ならば生徒自身に挑ませて完遂を求めるべきことを、先生が不用意に先回り/肩代わりしてしまうと、生徒は自力でできるようにならなければいけないことをいつまで経ってもできないままだったりします。学習者としての自立を促すためにも、主体性の及ぶ範囲を膨らませるためにも、生徒にやらせずに先生が肩代わりしていたことがないか、これまでの授業をどこかで振り返ってみる必要がありそうです。 生徒にはできないと思い込ん…
2020年の高大接続改革の前後から「学習型問題」をよく見かけるようになりました。教科書では扱われていない、つまり生徒がそれまで学んだことがない事柄についての説明や資料を読ませ、そこで得た理解を土台に問いに答えさせたり、意見を述べさせたりするものです。以前はごく一部の大学に出題が限られましたので、個別指導でも対応ができましたが、出題が一般化してくるとなると、授業のあり方や3年/6年を通した指導計画に…
生徒から「説明はわかりやすい」「とても面倒見が良い」「訊けば何でも答えてくれる」と言われて悪い気はしませんが、「自ら学び続けられる生徒を育てる」という目的に照らすと、如上の評価を受けたときの心地よさに胡坐をかいてばかりはいられない気がします。もしかしたら、学習者としての自立にブレーキをかけているかもしれません。頼りになる先生が目の前にいるときは良いですが、やがては手放し巣立たせる生徒です。一人にな…
教室を覗いてみると、同じ授業なのに生徒のノートの取り方は実に様々です。おざなりなノートの取り方に「あとで復習するときにわかるのかな?」と心配になることもあれば、先生の板書は綺麗に写し取っていても、それ以外まったく書き込まれていない(=本人の思考の痕跡が見て取れない)ノートも少なからず見かけます。その一方、同じ教室にはしっかりと整理されたノートに、散在していた情報をきちんと集め、構造化している生徒も…
夏休みの宿題では昔からの「定番」になっているものの一つに、英語のサイドリーダーがありますが、「時間の余裕があるときに、まとまった量の英文を読むこと」の意義は、学力観や学習指導を通して目指すところが変わってくる中で、以前とは捉え方を変えるべきかもしれません。そもそも、生徒の夏休みは、体験学習や課題研究/探究活動、大学訪問と様々なコンテンツやイベントが積み込まれる中で、「時間の余裕」があるものではなく…
どの生徒のノートもしっかり板書を書き写しているし、予習も完璧に行われており答え合わせだけで十分。生徒を指名しても期待通りの答えがきっちり戻ってくる。一見すると「これまでの指導の成果」のように見えなくもありませんが、どこかに違和感を覚えます。もちろん、ちゃんとノートを取れない、予習もしない、答えさせれば的外れというのでは、これまでの指導のあり方を反省しなければならないでしょうが、指示を的確にこなす姿…
授業評価アンケートの自由記述意見を読んでいると、グループワークを多く経験する中で、協働での学びに貢献する「責任」を感じた、「役割をきちんと果たさなければ」との思いを強くした、といった記述に出会うことが少なくありません。グループワークは、個人の発想を超えたところに解を見出すことを目的に、集団知/分散知の活用や対話による気づきの交換を図るために採り入れる活動ですが、協働を経験する中で、個々の学習者とし…
探究活動を始めとして生徒が自分(たち)が取り組んできたことの成果を発表する機会は以前に比べて多くなっています。日々の授業の中でも個人/グループで調べ学習や討論を行った結果をプレゼンテーションにまとめるのは既に「ごく普通の光景」になったように思います。プレゼンテーションの準備に取り組む工程での試行錯誤や努力そのものに加え、発表の場を通して得る直接/間接のフィードバックは、生徒にとって他に代えがたい成…