問答を通じた論理性・思考力の涵養は、すべての科目を選ぶことなく学ばせられる高校のうちにこそ推し進めたいところ。様々なジャンルを対象に思考の訓練を重ねた方が、より汎用性の高い力が得られます。
しかしながら、生徒の思考を引き出しながら問いを重ねようと、ただ発問を増やしてみても、生徒の反応が鈍いままというケースも少なくありません。「正解を言い当てることではなく、自分の考えを言葉にすること自体が求められている」という認識を生徒に持たせる工夫とその習慣化が重要です。
2015/04/24 公開の記事をアップデートしました。
❏ 失敗が許容される雰囲気を作るための習慣化
授業中に発問をして、指名した生徒が正解と違うことを発言したとしましょう。そのときに「ちょっと違うね、じゃあBさん」と応じたとしたら生徒の側ではどんな認識になるでしょうか。
最初に発言した生徒は、せっかく考えた答えを否定されたことになり、面白くはありません。これを繰り返しては、だんだん「正しい答え以外は期待されていない」という認識が作られていきます。
生徒に限らず、人は周囲からの期待に沿った行動を取らなければならないと無意識に感じますので、否定されるぐらいなら「わかりません」で済ませた方がマシと考えるようになってしまいます。
先生は、生徒にとって「いつも正解を持つ人」です。先生の期待と違った行動・発言は「間違ったこと、失敗」と生徒は認識してしまい、その結果、次からの発言を躊躇するようになります。
これが繰り返されて習慣化した結果が、「発言の出ないクラス」です。これは目指すところと違いますよね。
同じクラスでも、A先生が英語を教えるときはまったく発言が出ないのに、次の時間にB先生が国語を教えると活発な発言が飛び交うというのは、各地で授業を参観する中でたびたび目にする光景です。
同じクラスだけに、生徒の資質や基本的な行動傾向は同じはず。如上の違いを生むのは、生徒と教師の間で作られてきた「習慣」や「約束事」によるものと考えるしかありません。
❏ その場で正誤の判定をしないのも一つの方法
生徒を指名して発言させるときに、正誤の判定を挟まずに幾人かを連続して当てていくというやり方があります。
正解であろうと、間違っていようと、その場では否定も肯定もせずに、「Bさんは?」「Cさんは?」と繋げて行きましょう。
「正解を言い当てることではなく、自分の考えを言葉にすること自体が求められている」との認識を教室で共有するのがここでの狙いです。
指名した生徒の発言が正解だと、つい「そうだね!」と言ってしまいますが、その一言が、自分の答えに自信を持たない周りの生徒を委縮させてしまうリスクを頭に入れておきましょう。
他の生徒の発言に触れる中で、新たな着想を得ることもあれば、「そういう考えもあるのか」との気づきの中で学ぶものもあるはずです。
指名された生徒の発言にほかの生徒が耳を傾けていないと、如上の学びは機能しませんから、ときどき「今のD君の意見を簡潔にまとめるとどうなる?」と振ってみましょう。
また、発問で引き出した生徒の発言をどう扱うかにも、色々と考えるべきことがあります。
正解だった場合は、「どう考えたのか」「何を手掛かりに考えたのか」など、正解に至ったプロセスそのものを言語化させるような問いを発しましょう。
生徒が作った答えは「たまたまの正解」だったかもしれません。何となくできたけど、しっかりわかっていなかったとしたら、似て非なる別の課題に対しても正解できる保証はありません。
間違っていた場合も、プロセスに焦点を当てた問いで、間違いに至った理由を明らかにすれば、それはそれで大きな学びになるはずです。
❏ 例題などの解説を読むときにも
生徒に発言してもらうものは、生徒が自分の頭で考えたことだけではありません。
教科書や資料、参考書などをその場で調べて、書いてあったことを自分の言葉にまとめ直すこともあるでしょうし、周囲の生徒と話し合った結果を言葉にさせることもあるはずです。
テクストとの対話、生徒同士の対話の結果を携えて、問答という先生との対話に戻ってくるようなイメージです。
普段の会話を考えてみても、手持ちの知識やその場での思い付きだけでは話は膨らみませんし、事実に基づかない憶測に終始しては何にもなりませんよね。
教科書をきちんと読み、副教材にしっかり当たることを習慣化させたり、事実をきちんと調べ思い込みや錯誤に陥らないように注意する姿勢を持たせたりすることも、教室での指導の重要な目的だと思います。
あちらこちらにコンサルをかけて発想を補い、事実を踏まえてこそ、対話はより実のある(=合理的で建設的な)ものになるということを、こうした場面を通じて生徒に学ばせて行きましょう。
このシリーズのインデックスに戻る
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一