心地よさ[調和]が生まれる原理を学ぶ

美しい、心地よい、好きといった「感覚」を、論理立てて説明したり、どうしてそれが生まれるのか、メカニズム[原理]を言語化して検討・研究したりする機会は、日常の中にはあまりないかと思います。
人が感じる美しさや心地よさ、調和といったものは、芸術の世界にだけ存在するものではありません。考え方や、意見・提案、問題の解決策にも、「論理性や合理性を超えたところ」にそれらを感じることがあり、触れた人の心を掴み、広い理解と深い共感を得たりするものです。
敢えて言うなら、心地よさ(調和)は、人が納得し、合意し、協働するために必要な共通の基盤(インフラ)の一つではないでしょうか。
それらを生みだすのは何か。様々な場面で意識を持たせ、考えさせることは、「豊かな未来/社会の担い手」を育てる上でも大切なこと。その機会をどこに用意するかといえば、先ずは教室ではないでしょうか。

❏ 心地よさや調和を生み出す「仕組み」を知る必要性

如上の「ポジティブな感覚」がどんなものであり、どこから(=どんなメカニズムで)生まれるのか、その原理を言語化して捉えることができれば、より幅広い対象への「応用」が期待されます。
例えば、コミュニティが抱える様々な問題に対し、「納得解」を導き出そうとするときにも、「理屈のごり押し」で合意を得るのは容易ではありません。皆が心地よく、調和を感じられるような提案が必要であり、その作り方を知っているかどうかは議論の成否を大きく分けます。
合理だけでは合意に至らない場面でも、人は「説明できないが、納得できる何か」によって動いています。その「何か」をブラックボックスのままにしては、未来/社会を好ましい方向に作り上げていくのに余計なハードルを抱えることになりかねません。
このブラックボックスを解き明かそうとする営みが、古くから「美学」と呼ばれてきたものでしょう。
社会が抱える問題に、「皆が共感/納得できる解決策」を創り出し、社会をより良いものにしていくには、学校にも、所謂「美学」を(焦点を絞って)学べる環境と機会を、整えていく必要があると考えます。
もちろん、各教科に固有の知識・技能、思考力などを鍛えることを疎かにできませんので、本来のカリキュラムの中に生じる「好機」を効果的に活用して、という前提がつきますが、どこで、どのように学ばせることができるかは、時折でも考え、話し合っておきたいところです。

❏ いつ、どうやって学ばせるべきか(学校の中で)

心地よさや調和を感覚ではなく、言語化可能な論理として捉えるには、一定の「訓練」が必要です。生得的に身につくものではなく、才能ある人の「センス」も環境の中で培われ、発現しているものだと思います。
中には「天才」もいますが、環境からの読み取りや、そこで得た気づきを構造化するのが、他者と比べて格段に速く、正確というだけかも…。環境と体験なしには学びに再構成できないのは常人と同じはずです。
前述の「原理」を学ぶには、観察を通じて、違いを見つけ、問いを立てて考え出したメカニズム(仮説)を言語化してみる――この積み重ねが必要です。その機会を各教科の学習や課外活動の中に見つけましょう。
絵画や音楽、デザインに限らず、自然の造形でも、対話や論理/思考、アイデアの中にも、心地よさや調和を感じとれる瞬間があります。その瞬間を見逃さずに、「なぜ美しい/心地よい/調和がとれていると感じるのか」を自問するところが、学びの起点になります。
合理性だけでは納得(≒理解と共感)が得られない場面で人を繋ぐ機能が期待される「美学」を生徒が学ぶ機会は、先生方の意識と工夫とで、学校の日常の中にも作り/見つけ出せる可能性があるということです。

❏ 各教科の学びの中に作れる、訓練の場

高校までの教育課程は、多彩な教科・科目を学ぶことで、より良く生きるのに必要な知的基盤(知識・技能)を満遍なく整えるとともに、様々な場面で求められる能力や資質、姿勢を養うように設計されています。
心地よさや調和の原理(美学)も、学び、身につけるものの一つ。あらゆる教科・科目に「訓練の場」を設けることが、幅広い場面で、必要な力を不足なく発揮できるように育むことに繋がっていくと考えます。
芸術教科に限らず、国語、地歴・公民、数学、理科、外国語、さらには保健、家庭、体育、情報の各教科でも、教科固有の見方を学ばせつつ、効果的なトレーニングの在り方を見つけ出していきたいところです。
まずは、国語。いったいどんな学び/活動が可能でしょうか。
例えば、論理性には何ら問題のない文章であっても、読み手の心にスッと入ってくるものと、そうでないものとがあります。読み手にガードを上げさせる(身構えさせる)文章と、逆に下げさせる文章です。
読み手の心理に、なぜそのような違いが生じるのか、複数の文章を材料に考え、話し合うことは、思考に腹落ちしやすい表現を与えるための勘所を見つけ、スキルとして内在させる機会になりそうです。
さらに一歩踏み込んで、「そのメカニズムについて仮説を立て、アンケートなどを用いて検証してみる」ところまで学びを進めることもできるはず。総合的な探究の時間のテーマにもなり得ます。

地歴公民では、社会問題に対する解決策の中で、賛否と対立で終わったものと、折り合いをつけられた事例を比較してみるのも好適です。
前者のどこに問題があったのか、その検討過程にどんな発想を加える余地があったのかなどを考える機会を、折あるごとに重ねていけば、社会問題の解決策(政策)を考えるのに必要なスタンスも学べそうです。
持続的な発展に繋がった地域開発と、負の遺産だけを残したものの比較からも、次世代を担う生徒が学ぶべき多くの示唆が得られます。過去の事例を教材に、未来のために学ぶという意義も満たす活動でしょう。

数学でも、答え(正解)が出れば良いということではないのかと。同じ条件を満たし、同じ答えに到達している「答案/解答」にも、すっきり見えるもの、見通しよく腑に落ちるものがある一方、ごちゃついたり、強引さを感じたりするものもあるでしょう。
前者の方が、人の理解や共感を得やすい上に、プログラムするときなどにも、コスパの高いアウトプット/コーディングができるはずです。
答案の相互検討や解法比較の場で、「どちらの答案がすっきりしているか/腹落ちするか」と問い、理由を言葉にさせていくうちに、「構造、必然性、見通し」といった数学的思考も身についてくると思います。

理科では、物事を分類するときの軸の立て方や、実験方法を考える場面において「論理的な矛盾はない」という水準にとどまるものと、「より洗練され、納得性の高いもの」との間に、どのような差が生じているのかに目を向けることができます。
概念に与える名称の選び方や、方法を選択する際の理由付けの仕方といった点にも違いがあるかも。比較の中で、そうした違いの「根っこ」を探し、言葉にしていくこと自体が、物事の捉え方を深めるはずです。
解明されたメカニズムを提示する際にも、どんな表現(様式)を選ぶかによって、受け手の理解のしやすさや、その知見を応用していく側の発想の広がり、インスピレーション(次の問い)に違いが生まれます。

英語では、国語と同様の活動のほか、文化的背景の違いの中での「心地よい/通りの良い表現」「そうでない表現」の違いを考え、両者を分ける境界がどこから生じているのかを探ってみるのも面白いと思います。
日本語で考えて日本語で表現した、「論理的で洗練された文章」も、そのまま直訳するのでは、英語ネイティブには「ピンとこない」もの(日本語の論理を引きずった不自然、冗長なもの)になりがちです。
AIを使った日英翻訳でも、日本語原稿を「訳せ」と頼んだ時と、要旨だけ箇条書きにしたものを与えて、「英語で文章に整えて」とした場合では、アウトプットは別物でしょう。相手(英語圏の人)の理解と共感が得られる表現の力を獲得していくには、知るべきことの一つです。

その他の教科(実技実習系を含む)
体育や芸術では、何が美(心地よさや調和)を創り出しているかを問い、言語化させていくのは、思考レベルでの難易度調整にも有用です。
保健や家庭では、探究的な学びに取り組ませる中で、前掲各教科で事例に挙げた学びに触れさせることも可能かと思います。ただし、授業時数の少なさもありますので、あまり欲張らないのが正解でしょう。
情報で学ぶ「情報デザイン」は、まさに美学視点でのダイレクトな学びの機会だと思います。単に技術的なことを学ばせるのではなく、背後にどのような「認知のメカニズム」があるのか、考えさせましょう。



心地よさや調和の原理(美学)を踏まえることで、より多くの人に受け入れられる/喜ばれる製品やサービス、社会の仕組みが生まれるようになれば、未来はより豊かで、持続可能性の高いものになると思います。
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教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一