問いやお題を与え、一人ひとりに調べたり考えさせたりさせ、その成果を持ち寄ってシェアさせれば、欠けていた理解や気づきを互いに補うことになり、学びがより深く広いものになります。
調べる時のソースが違えば、互いに矛盾する情報が見つかることもあるでしょう。それぞれの信ぴょう性を評価したり、矛盾に対処したりする知恵を働かせる(=力を鍛えて評価する)好機が教室に生まれます。
同じものを参照しても、そこから拾い上げる情報も生徒間で微妙に違うかもしれませんし、そこに問いを立てさせてみれば、問題意識の所在の違いなどもあらわになろうかと思います。
こうした「一人で考えているだけでは気づけないところ」に意識を広げさせることにこそ「対話的な学び」の意味があります。
調べて考えた結果(答え)が仮に間違っていたとしても、それを起点にコミュニティの思考がさらに広がったり、深まったりすれば、考え尽くしたことを伝えたことで、全体への貢献を果たしたことになります。
❏ 答えの中に生まれる、解き明かすべき新たな問い
答えが一つに決まらない問題であれば、生徒一人ひとりが導き出した答えは違って当然。解決へのアプローチも一様ではないはずです。
答えを持ち寄ったことで、様々な考え方やアプローチがあることを知れば、それだけでも大きな学びになりますし、それらを比較しながら、より良い答えに近づこうとする中で思考力なども鍛えられます。
持ち寄った答えを比較、検討する中で、新たな問い(どこで答えが違ったのか、なぜ他のメンバーの納得が得られないのか)が生まれることもあり、それらに答えを見つけようとすれば、学びはさらに進みます。
答えが決まっていない問題ですから、生徒が一人ひとり考え尽くした結果は、言ってみれば「検証されていない仮説」ということ。
間違っていたり、周囲の納得を得られず、棄却されたりするかもしれませんが、提示して議論に乗せることそのものが、自分を含めたコミュニティ全体に新たな知をもたらす貢献であると、生徒には伝え、考え尽くしたことなら、恐れずにしっかりと伝える姿勢を持たせましょう。
クラス全体にそうした意識と姿勢を持たせておくことは、互いの発言を尊重し、より良い答えを作るための協働に向かわせるための前提です。多様性のより高次な実現に向けても必要な準備だと思います。
❏ 考え尽くしたことをシェアする材料は至る所に
誰かが考え尽くした結果(答え)が、たとえ間違いだったとしも、それに触れた人に新たな気づきや問題の捉え方を与える効能をもつことを、体験の中で学ばせるには、様々な材料が使えます。
論述問題の答案やレポートなどの提出物
各教科の学習指導の中では、論述問題の答案やレポートなどの提出物は、最も手近で使い勝手の良い「教材」になります。
先輩学年の生徒が、同じ単元を学んだ時に残した答案や、提出したレポートをスキャンした画像などがきちんと保管されていれば、その中から教室での議論に向いたものを選ぶだけです。
本人の使用許諾については、提出させる際に「次年度以降、授業の教材に(名前は伏せて)使うことがある」と伝えておけばOKかと。
教材の中に生徒が立てた「問い」
教科書や資料を読ませて、その中に問いを立てさせることでも、好適な材料が得られます。如上の「答え」とは違いますが、立てた問いも「考え尽くした結果」であることに変わりはありません。
別稿でも書いた通り、問いを立てる中で、対象の理解は深まりますが、どこに意識を向け、どんな問いを見つけたかは、生徒ごとに違うもの。教室に持ち寄って話し合わせれば、欠けていたものを互いに補えます。
探究活動の成果品(論文やポスター)
先輩学年が残した探究活動の成果品(研究論文やポスターセッションの掲示物など)を教材にして、データや実験方法の不備、論証の破たん、先行研究の参照不足などを見つけさせるのもお奨めです。
実例を通して「探究活動を進める際のフェイズごとの落とし穴」を知れば、自分の探究を進めるときに注意すべきことも具体的に学べます。
先輩たちが、どんなデータや資料を見て問いを起こしたかにも、想像を向けさせましょう。テーマにしようとしていることをどう観察し、問題を見つけるか、「お手本」ばかりでなく「反面教師」からも学べます。
自分が作り出したもの(答案、問い、発表)が教材にされることに抵抗を感じる生徒も中にはいるかもしれませんが、それは「考え尽くしたことを議論の場に提供することでの貢献」を理解していないからかも。
以前のテレビ番組(相対論vs量子論 事象の地平線と“異次元のダンス”)で、ホーキング博士が提示した「ブラックホール情報パラドックス」を反証したサスキンド博士が、論争を振り返ってこう言っていました。
「ホーキングの答えが間違っていたことは大した問題ではない。
正しい問い(仮説)を立てたことの意義は計り知れなく大きい。」
まさに、ホーキングが自ら考え尽くしたことを伝えたことが、科学の進歩に限りなく大きな貢献をしたわけです。(彼らほどの知の巨人でなくても)どんな人でも、しっかり調べ、真剣に考えたことを表明すれば、地域や社会に対し、身の丈に応じた貢献ができるのだと感じました。
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教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一