改めて考えてみる「問いを立てる」ということ

このブログでもたびたび「問いを立てる」という言葉を使ってきましたが、改めてその意味するところを考えてみたいと思います。
単純に「なんだろう」「どうなっているのだろう」と疑問や興味を持つ段階から、「疑問の正体を特定し、共有可能な表現でその本質を表現する」という過程を経てようやく「問いを立てる/起こす」に至ります。
目の前の事物を注意深く観察したり、資料などを注意深く読んだりしないと、起点の「なんだろう」が浮かびません。問われて初めて「なるほど、そんな問題があるのか」となるのでは心許ない感じがします。

❏ 問いを立てる力=問題発見力(思考力の構成要素)

以下の別稿で繰り返してきた「問いを立てる」というフレーズですが、それができるようになって初めて、21世紀型能力における思考力の一部を構成する「問題発見力」を獲得したことになるはずです。

別稿でも書きましたが、様々な能力や資質の涵養は、全科を上げてコミットすべきことがらであり、どの教科の学びの中でも、日々の授業の中に、問いを立てる力を鍛える機会を整える必要があります。
問いを立てるに至るまでのプロセスの「第一歩」は、対象(目の前の事物や資料)を注意深く観察するところにあります。観察をタスクに「問題発見力」を育てる機会をどのくらい整えているでしょうか。
教科書や副教材のデジタル化が進み、精緻なイラストやひと目で要所を伝えるデザインを与えられたデータに触れることも多くなりましたが、鮮烈な印象を受ける分、注視や観察が疎かになることもままあります。
観察力を鍛え、評価する機会を作るべく、ときには「手を使って書き写す」というアナログな作業に立ち返らせるのも悪くありません。
また、効果的な観察を行うには、与えられた/抽出した情報を整理したり、構造化したりする途中工程を挟むのが有効なこともあります。

こうしたタスクを日々の学びの中に配置することで、問いを立てる力=問題発見力を、重層的に(=各教科の学び、様々な学習体験を重ね合わせて)育てていきましょう。当然ながら、その評価も必要です。

❏ 適切な課題設定の入り口は「正しい問い」に

社会を取り巻く様々な課題を解決し、より良い世界を実現していく人材の育成が求められていますが、課題を設定するところでも、適切な問いを立てられるかどうかが問われます。
現在の世界は、古から綿々と世界各地で続けられてきた「課題解決」の営みの成果が蓄積したものですが、様々な「歪み」を抱えています。
この歪みは、個々の場面での「解決すべき課題の設定」に誤りがあったのではないでしょうか。人間の欲求には「満たすほどに膨らむ性質」があり、どんな課題でも達成さえすれば、「もっと」となります。
脳科学者の先生方によると、なんでもドーパミンの働きとか。
より便利に、より快適にという欲求に従い、持続可能性に反する課題/目標を設定しては「欲求の暴走」で問題は解決不能な方向に進みます。
持続可能な未来への責任(21世紀型能力では「実践力」を構成する要素との位置づけです)を獲得させるには、「適切な課題設定」の前提となる「正しい問い」を立てる力の涵養がなによりも大切になります。

❏ 背景知識の違いで、立てられる問いは異なる

どんな問いが立てられるかを決める要素の一つは、その人が備えている知識でしょう。(もちろん論理的思考と批判的思考も不可欠です。)
同じものに触れても、背景知識が豊かな人は、より多くの関連性を捉える中に様々な問いを浮かべ、その中からより好適なものを選べますが、逆の場合、思いつくものが限られる分、好適なものは含まれないかも。
ここで言う知識は、自在に想起できる記憶や、体系化された知識に限りません。記憶の奥底に埋もれていた(≒忘れていた)ものでも、目の前の事物に触れて、記憶の淵から浮かび上がることがあります。
知識に再構成される前の状態にある「体験」もまた、新たに触れた情報と結びつき、突然、パズルのピースとして働き始める(新たな意味を得て、思考を展開、拡張させる)ことも少なくないはずです。
体験のたびに感じたことをしっかり考え、言語化&記録するのは、どこかで使うかもしれないピースを整備、蓄積する活動であり、より良い問いを立てる(=正しい課題を設定する)土台になっていきます。
様々なコンテンツがデジタル化されている現在、検索は容易になり、覚えておくことの意味は薄れてきたと考える向きもありますが、「問いを立てる」上で、頭の中の知識や記憶は大切な役割を持ちます。
知識はまさに思考のための道具であり、とりわけ問題発見のためには欠かせないもの。選り好みせず、広く学び、様々な体験にチャレンジさせ続けさせることの大切さを忘れないようにしましょう。

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教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一