考査問題の妥当性を考える時の視点(その1)

考査問題で何を測るかは、授業で何を教えるかと「ほぼ同義」です。教える側には、意識しているか否かに拘らず、「学力観」「教科観」が頭の中にあり、それが一方でテスト問題に、他方で授業実践に現れます。
出どころが同じだけに、それが表出した両者が互いに近いものになるのは当然です。考査問題を拝見すると、作成された先生がどんな授業をするかおよその見当がつくことも少なくありません。
さて、そのテスト問題ですが、「生きて働く知識・技能」を正しく測定し、「思考力・判断力・表現力」を的確に点数に換算する機能を備えているでしょうか。
もし、テストの出題内容(=測定項目)や採点(=換算方法)に不備があり、「モノサシ」に何らかのゆがみが生じているようなら、授業そのものにも改めなければならない箇所があるはずです。

2015/03/04 公開の記事を再アップデートしました。

旧タイトル:考査問題の妥当性評価(その1)

❏ ゆがみを作っている原因~測定する学力の違い

次稿(その2)でご紹介する形で、個々の生徒の成績記録を使って、

  • 定期考査での成績や評定(=教室内でのパフォーマンス)
  • 模試や外部検定、共通テスト等の得点(教室外で発揮した学力)

とを調べてみると、両者に相関があいまいなことが多々あります。
相関が弱い、つまり散布図上の近似線から大きく離れるところに分布が多いということは、定期考査が測定している学力(=教室で生徒に求めている学び)と、模試や外部検定で求められている学力とが一致していないということです。
教えたことをきちんと覚えて答案上に再現できるだけでは、知識の有無は確かめられますが、それが「生きて働く」ものになっているかどうかはわかりません。
もし、記憶と再現の繰り返しで点数が取れるような考査問題になってしまっていたら、学んだことを使って新たな課題を解決する力が試される外部でのテストとは違ったものを点数に換算していることになりますから、考査と模試との相関が弱いものになって当然です。

❏ 配点の不備も「学力を点数に変換する機能」を歪める

出題内容そのものが適正なものであったとしても、配点が合理性を欠いたり、恣意的なものになっていたりすれば、学力の点数への換算結果にも歪みが含まれることになります。
例えば、実際のテスト問題を拝見してみると、個々の知識の有無を試す問題で1点、複数の知識を組み合わせる問題も1点、題意の把握や使う知識の選択に周辺知識も動員したり、書き上げた答えを吟味したりといった工程を踏んでもやっと2点、…といったケースも散見されます。
正解を得るのに動員された知識ひとつ当たりの配点を考えると、最初のタイプでは知識1つの所持で1点もらえることになりますが、次のタイプの問題では2分の1、3分の1…と「縮小」されていきます。
最後のタイプに至っては、動員する知識1つ当たりの配点はもっと小さくなりますよね。国政選挙だったら違憲判決が出そうです。

❏ 教えたことすべてを記憶したかの確認に拘泥しない

教科書を教えるという意識が優位に立つと、「教えたことはすべて出題し、網羅的に点検する」という作問になり、やたらと設問数が増えて行くことになりがちです。
これに「考査は100点満点」という固定観念も加わり、全体を無理やり100点に収めようとするため結果的に適切な配点が実現しない…。これが配点の不備という問題を生み出している原因のひとつです。
個々の知識の有無を試すことではなく、獲得させた知識・理解が生きて働いているかを試すことに、作問時の意識を向けましょう。
試した知識は教えたものの一部に過ぎなくなりますが、テストで測定できた「どれだけの知識を生きて働かせることができているか」から、獲得した知識の総量も十分に/一定以上の精度で推定が出来るはずです。

❏ 生徒はテストに合わせて学びのスタイルを作る

生徒は、テスト問題に合わせて学習します。これまでに経験した定期考査を踏まえ、「こうやって勉強すれば良い」という戦術を考え、それを繰り返すうちにいつしか学習のスタイルとして固定します。
もし、テストで測定しているものが「知識・技能」の有無に偏り、それらが思考・判断・表現の力として生きて働いているかに生徒が重きを感じとれない状態が続いたら、3年間の学びが方向違いなものになるリスクを孕みます。到底、好ましいこととは思えません。
定期考査問題は、生徒が自分の学びのスタイルを作っていく上でのモデルとしての機能を持つ以上、教室の中に閉じて行う定期考査問題も、新しい学力観を反映したものにどんどん変わる必要があります。

❏ 目的に応じた、評価方法の適切な使い分けを

学習評価は多様なツールを組み合わせて多面的・総合的に行う必要があることは、言うまでもありませんが、テスト以外のツールで測定すべきことがらを、無理やりテストで測ろうとしているケースもあります。
例えば、夏休みに課したサイドリーダーの履行状況を確かめる意図で行った課題テストに「次のセリフは誰のものか、次の中から選びなさい」という問いがありました。(正確にはちょいちょい見かけます)
英文をまったく読んでいなかったとしても、あらすじを知っていれば大方は正解できそうですよね。サイドリーダーを通じて得た知識や技能はおろか、読んだかどうかの履行確認にも隙だらけです。
端的に言ってしまえば、この場面で「テスト」という測定手段を選んだことがそもそもの間違い、ということではないでしょうか。
課題付与に際し、サイドリーダーに真面目に取り組ませること自体(=指示にきちんと従わせること)を目的としたわけではないはずです。
作品に触れての啓発を期待したなら「読んで考えたことを英語で表現させる」という課題もあり得たと思いますし、興味を持って英文を自力で読むという目的なら、課題研究の一貫として、興味を持ったテーマの英文を自分で探させ、要約させる方が、はるかに効果的、建設的です。
もし、「勤勉な取り組み」そのものを期待したなら、読書の進捗記録をその日に読んだ部分の要約を添えて提出させるという手もあろうかと。
その2に続く

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教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一

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