昨日、テレビの某情報番組で、東京近郊の公立中学生が通学で持ち歩く通学カバンとバッグの重さの平均が8.6キロにも及び、その原因は脱ゆとり教育で副教材が増えたこととのレポートがありました。
たしかに、授業を参観に教室を訪ねてみると、生徒のカバンは大きく、通路にあふれ、机間指導もままなりません。
でも、荷物が増えた分だけ、学びが膨らんでいるのでしょうか。持ち運んでいる教材のうち、使いきれていないものがかなりの比率を占めている気がします。
荷物が重くなったことよりもっと重要な問題が、これらの背景に潜んでいると考えます。
❏ 荷物を増やせば学びが膨らむわけではない
教科書の外に、副教材が数種類、さらにはプリントを閉じるファイルもあって、授業中の机は荷物であふれかえっています。
しかしながら、50分を通して見ていても、生徒が副教材を開く機会は思いのほか少ないように感じています。
教科書すら開いてこそいるものの、生徒が真剣にその内容を読み取ろうとしている場面すらそれほど多くありません。
先生の説明を聞いたり、練習や話し合いなどの活動に取り組みながら、配られたプリントの空欄を埋めていく中、ノートもあまり使われていなかったりします。
本当に、あれだけの教材を持たせる必要があるのでしょうか。
❏ 教科書を自力で読み解けることも目標の一つ
新共通テストでは、文章(テクスト)を読んで、内容を理解し、その理解に基づいて考える力を試す出題が予想されます。
教科書を自力で読み解くのは、情報を整理しながら文章を読み、自力で問いを立てる(=教科書と対話する)ための基本的な訓練です。
知識付与の効率を優先するあまり、テクストを読み解く部分を先生が肩代わりしては、学びの大切な部分に穴があくのではないでしょうか。
教科書をきちんと読ませることに、もう少し重きを置き、自力で読み解く力を身につけさせることを意識したいものだと思います。
教科書で学ぶ中、理解の軸を作れば、あとは生徒一人ひとりのニーズに合わせて知識拡充の機会を用意すれば良いはずです。
❏ 不用意にプリントを多用することが招くリスク
話を聞きながら、プリントの空所を埋めていけば、その単元の知識は獲得できるでしょうが、知識を獲得する/生み出す練習にはなりません。
生徒が、プリントの空欄に埋めた文字列だけを覚えればOKと錯覚すれば、知識の断片化が進むだけかもしれません。
板書されたことを白紙のノートに写すことは注意深い観察を求めます。手を使って書き写すことの大切さを忘れないようにしたいものです。
プリントの使用を要所に抑えれば、プリントを閉じるファイルをわざわざ作らなくても、ノートに貼り込ませるだけでも要は足りるのではないでしょうか。
A4版のノートを持たせ、プリントをB5に統一して、きれいに貼れるようにしている先生もいらっしゃいます。
❏ 副教材は使い倒してこそ使える道具になる
副教材を山ほど持たせても、授業中にあまり使っていないケースも少なくありません。
参照型教材は、頻繁に参照させて使い倒してこそ、生徒にとって「頼れる道具(相棒)」になります。
授業中に扱えない事柄があるから副教材での拡充が必要だとのご意見も頻繁に耳にしますが、生徒がやりきれないものを押し付けて未消化を増やすことには意味はないように感じます。
仕上げ切れないことを状態化させることが、学習者として好ましからぬ習慣を身につけさせるリスクも考慮すべきではないでしょうか。
以下の拙稿も、お時間の許すときにご高覧いただければ光栄です。
副教材を揃え、漏れを作らない大きな「覆い」を用意したくなるのも、生徒の進路希望を実現させてあげたいとの熱意からのものだと思います。でも、こなしきれない状態が長く続くことが、学習者としての悪習慣の獲得、退化の引き金にもなり得ます。課題は与えた以上、達成させるのが教える側の責任です。指導の序盤から着実に達成を重ねることで、後半戦でより大きな負荷に耐えられる状態を作っていくという戦略性を指導計画に持ち込みたいものです。
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一