生徒が主体的/意欲的に学習に取り組むようになるのは「学ぶことへの自分の理由」(加えて「自立的に学べるだけの学習方策」)を獲得したときです。生徒を学びに向かわせるための手段として古くから多用されてきた、「頑張ったことへの褒美や賞賛(アメ)」や「サボったことへの罰や叱責(ムチ)」では、如上の成立要件のいずれも満たせません。
褒美をくれたり、褒めてくれたりする人や、叱ってくれる人がいなくなった途端に、学びを止めてしまうようなら、学んでいたのは「外からの圧力」があったから。主体的に学んでいたことにはなり得ませんし、指導を通して目指すべき「学習者としての自立」にもほど遠い状態です。
❏ 褒めて動かすというアプローチに走り過ぎると…
課題や目標に対して、生徒が正しく努力を重ね、それらを達成したときに「正当な評価」を与えるのは必要であり当然のこと。頑張りを認めてもらったことで、生徒はさらに頑張ろうという意欲を膨らませます。
しかしながら、「褒めて動かす」というアプローチにばかり頼っていると、いつしか生徒のうちでは「目標を達成できたこと」よりも「褒められたこと」での快体験が大きな部分を占めてくることがあります。
不明を解き明かす、興味を深く掘り下げるといった学習本来の目的よりも、周囲から承認されることに意識が向いてしまうと厄介です。
これが一定の水準を超えると「褒めてくれる人がいないところでは頑張らない」という事態も予想されますし、さらに拗(こじ)れて「褒めてもらえないことで不満を募らせる」ところまで行くこともあり得ます。
褒めてやる気を引き出すのが有効かつ必要な場面もありますが、それに頼り過ぎることなく、「学ぶことへの自分の理由」を持たせ、「学習方策」を獲得させていくことにこそ注力していきたいところです。
短期的な効果はあげても、アメを手に入れるという欲求を土台にしていますから、アメが与えられなくなったり、褒美に慣れて「当たり前」 になったら、インセンティブとして働かなくなるのも当然でしょう。
❏ 褒めることより、進捗と改善課題を捉えた学びを促す
目標の達成や課題の解決に取り組ませたときに「良いところ(結果でも過程でも)を本人に認識させる」ことで、学びを通じた進歩(成果や成長)を捉えさせるとともに、学びへの自己効力感も刺激できます。
しかしながら、これを「指導に当たる先生方」だけが行っているようでは、生徒が自分で「進捗を捉えた学び」ができるようになりません。
また、取り組んだ結果や過程を振り返れば、改善課題(より良い結果を得るために次の機会で注力すべきことがら)の発見もあるはず。これも先生方が「評価と助言」という形で行っているだけでは、不十分です。
学習の主体たる生徒自身に、きちんと振り返りをさせ、進捗と改善課題を捉えた学びを自ら行っていけるように導くのが先生方の仕事です。
指導と評価の一体化を図る中で、メタ認知・適応的学習力を養い、次の学びに向けた「自分の目標」を設定させていくやり方ならば、「褒めてやる気を引き出す」ときのような「副作用」は出にくいはずです。
❏ ペナルティで縛っている状態は{従属性>主体性}
他方「ムチ」によるアプローチもアメと同じ弊害を持ち合わせます。
例えば、単語集を計画的に勉強させようと、小テストを定期的に行い、不合格者に再テストなどのペナルティを課すというやり方は、古く昭和の時代から続くもの。今もなお、減ってはいても残っているようです。
単語テストに取り組む中で、語彙の拡充という成果に達成感を得て、積極的に取り組んでいるのなら全く問題はありませんが、「怒られないように」というネガティブな動機が優位に立つのは好ましくありません。
ペナルティがなくなった瞬間に単語集に取り組む理由がなくなり、語彙拡充に向けた努力も止まるのも想像に難くないかと思います。
単語を覚えさせるという場面以外でも、宿題などを課すとき、「ムチでお尻を叩いているだけではないか」と自問する必要もありそうです。
次の時間に予定している活動(議論など)で必要となる語彙のリストを提示し、活動への準備として覚えてこさせるなどの方が好適でしょう。
❏ 鼻先にニンジンをぶら下げるのも、効果は相手次第
その場のことである「アメとムチ」以外に、将来の利益を想像させて頑張らせる「ニンジンをぶら下げる」のも、うまくいくとは限りません。
ニンジンがやる気を引き出すのは「ニンジンが好き」な相手に限ってのこと。馬は走ったとしてもニンジン嫌いの子供に効果はなさそうです。
美味しそうだと思っても、手が届かないと感じれば、それは「酸っぱい葡萄」です。頑張らないことで自尊を保とうとすることもあり得ます。
生徒の興味や関心を引きそうな話題から入るという導入の工夫も、すべての生徒に効果があるわけではなく、不発に終わるのもしばしばです。
目標(進路希望など)を見つけさせて頑張りを引き出すというありがちな作戦も「目標を見つけるまで頑張らない→頑張らないから見える景色が広がらない→同じ景色の中には新たな目的地は見つからない」という悪循環/ジレンマを引き寄せるだけの結果にもなりがちです。
将来の夢や希望を見つけたとしても、叶えるための努力を重ねる長期間を走り切るのに、それを発見したときの高揚感という燃料だけで十分でしょうか。一本のニンジンで引っ張れる期間には限界もありそうです。
❏ 解消したい不明、努力して達成した中に見出す興味
こうした、アメとムチ、あるいはニンジンを使ったアプローチに対して何かを学ぶ(問われる)中で見つけた不明を解消したい、あるいは興味を掘り下げたいという欲求は、違った働き方を見せてくれます。
何かを学ぶ中で不明の所在に気づけば、それを解明したいと思うものであり、それは人に備わる「本能的な反応」ではないでしょうか。
不明を解消すべく、あるいは興味の赴くままに、調べたり、人の話を聴いたりしていれば、新たな気づきや新しい別の興味との出会いがあるもの。その繰り返しの中で「学ぶ理由」が更新され、次々に生まれます。
工夫や努力で不明を解消した、新たな興味を見出したという達成感や快体験は、それを「繰り返したい」との内からの欲求を生み出す原資であり、そこには、前述のような「副作用」の心配もありません。
チャレンジングなことに挑み、努力することで、より大きな達成感が得られると、経験を通して学んだ生徒は、様々な課題にトライするはず。
その中で能力も視野も広がり、より大きな「予期せぬ偶然との出会い」が待っているはずです。好ましい循環の中で、生徒一人ひとりの成長を加速させていきましょう。
生徒の中には、先生の期待に応えたいという気持ちがあるもの。「静かに話を聞かせたい、反応よく行動させたい」との先生の気持ちを汲んだ生徒は、そうした行動をとるかもしれませんが、そこに表れたのは「主体的、意欲的に学ぶ姿勢」のとはちょっと違うかもしれません。
また、私語や居眠り、内職、いたずらなどは、目にすれば不愉快ですし、ガッカリもしますが、そうした行動にも何らかの理由があるもの。表層に現れた行動を矯めてみても、主体的な学びとは違います。
教室での学びを通して「頑張ってみれば、達成した中に新たな興味が生まれる」ことを学ばせられるかどうかが問われるのだと思います。
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教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一