選択した結果を正解にするのは「これからの行動」

生徒に限らず「選択」を迫られる場に臨めば、誰しも「本当にこの選択で良いのか、正解なのか」と悩むものかと思います。その選択が大きな分岐になり得るほど、悩みは深く、大きなものになっていきます。
進路を選ぶところに来てもなお、まったく悩みなしという生徒は、よく考えていないだけかもしれません。将来を真剣に考えれば考えるほど、集めてきた情報の中に多くの選択肢を見つけ、悩みは膨らみます。
選択に悩んでいる生徒には、「答えが決まっているテストと違い、人生の選択では、選んだ時点では正解かどうかわからない。選択したことを正解にする今後の行動こそが大事」と伝えてあげたいところです。

❏ 選んだ時点では、それが正解かどうかはわからない

科学技術の進歩や社会の変化で、未来を見通すことはますます難しくなってきています。現時点では正解としか思えない選択がこの先どこかで袋小路になっているかもしれませんし、逆もまた然りかと思います。
外的な変化だけでなく、本人の興味や関心の所在、価値観なども、様々な体験を積み上げるうちに変化するもの。何かを機会に、新たな興味や関心が生まれ、そこに自分の使命を見つけることもあります。
選択した先には、今の段階で思い描けないものが待っている以上、未来の選択では、選んだ時点ではそれが正解であるかどうか、誰にも(本人にも先生方にも)わかりません。
正解かどうかが選択する時点で決まっているのは、解内在型の(すでに正解が明らかにされ、解法も確立している)問題だけです。

❏ 選択したものを正解にするのは、その後の行動

別稿でも書きましたが、「キャリアは選ぶものではなく重ねるもの」です。ある瞬間の選択がもたらす可能性を最大限に活かし、新たなものを積み上げていけば、その先には思いもよらぬ選択肢が待っています。
どこかにゴールを想定して選んだ道でも、その先に分岐や交差点のない一本道であることはまれでしょう。ちょっと脇道を覗いてみたら、想像していなかった光景が広がっているかもしれません。
進学先で履修する科目の内容だって、入学前にはわからないもの。学んでみることで「自分にできること」が広がるのもよくあることです。
その後の行動によって新たに広がった中にこそ、「自分にできること」と「自分がやるべきこと」が重なる世界が見つかるのだと思います。
過去の選択を後悔し、歩を止めていては、可能性や選択肢は膨らみません。今できることに積極的にチャレンジしていくことが大切です。
自分が好きなこと、嫌いなことだって、チャレンジを重ねる中での体験を通してしか、見つけられないのではないでしょうか。「食わず嫌い」では、美味しいものとの出会いは遠のくばかりだと思います。
クランボルツも、計画的偶発性理論で次のように言っています。

  • 想定外の出来事があなたのキャリアに影響を及ぼすことは避けられない。
  • 現実は、あなたが考える以上の選択肢を提供しているかもしれない。
  • いろいろな活動に参加して、好きなこと・嫌いなことを発見するために、どんな活動にも積極的に取り組もう。
  • 間違いを犯し、失敗を経験しよう。間違いや失敗は重要な学びの経験となり、それが予想以上によい結果に結びつくこともある。

❏ とは言え、安易な選択(取り敢えずの選択)は許さない

どこかの時点で選んだものを正解にできるかどうかは、その後の行動次第であるとはいえ、安易な/取り敢えずの選択では、選んだ結果に向き合いにくく、その中での行動も積極的なものにはなりにくいはずです。
選ぶ段階では、可能な限りの情報を集め、しっかりと考え、少なくともその瞬間には「最善」と思えるものを選び出す必要があります。
選択の場に臨む前に、十分な情報を信ぴょう性を評価しながら集めて、一つひとつの選択の先に待つ可能性をできる限り想定し、そこに向き合う覚悟をきちんと作らせていく必要があります。

ちなみに、情報を集めて評価したり、展開を予想したりといった力を養う場は、進路指導のみならず、各教科の学習指導の中にも豊富にあるはずです。(cf. 全教科でコミットすべき能力・資質の涵養
こうした「選択に向かう行動」をきちんと取らせる中で、正しい選択をするための方法と姿勢を生徒は身に付けていき、それが卒業後の「正しい行動=選択したものを正解にする行動」も可能にするはずです。

先生方の指導によって、在学中は好ましい選択ができたとしても、その手を離れたときに自力で正しい選択ができなければ、正解を遠ざけるような行動を重ねてしまいかねません。
正しい選択(=可能な限りの手を尽くし、少なくともその時点で「最善と思える」ものを選び取ること)を重ねることこそが、「より良く生きる」ことではないでしょうか。
進路の選択に悩みを抱えている生徒は、誰かに背中を押してもらいたいと思っていることもしばしばですが、正しいプロセスを踏まずに、向き合うだけの材料を備えていない段階で、背中を押してはいけません。

実際、進路選択などの大きな分岐では、どちらかの道を選ぶことが、他方の道の先に広がる可能性へのアクセスを難しくするのも事実。安易な選択が自分を袋小路に追い込むリスクに気づかせる好機です。



若い(=先の人生が長い)うちほど、その先に広がる選択肢は多岐に亘ります。無限とも思える選択肢から「正解を選ぶ」という発想そのものにも無理がありそうです。悩みが膨らむばかりではないでしょうか。
世間の間尺では、「うらやましい」と思われる道を歩んでも、本当に自分がやりたいこと、充実感を抱けることでないとしたら、その人にとっての正解は他にあることになるのかもしれません。
繰り返しですが、そもそも「選んだ段階」では「正解かどうか」もわかりません。選択を正解にするのは、その後の行動。ある時点で正しいと思ったものも、その後の行動次第で正解にならなくなってしまいます。
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教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一