教育に限らず、どんなことであれ、目的とするところを達成するために様々な手段を講じます。当然ながら、手段となる個々の活動に関わる/参加する人々のコミットメントが、目標達成の前提条件です。
しかしながら、目的そのものに誰もが納得できる「価値」が見出されていない限り、目標達成への深い関与は期待できません。
他者に対してのみならず、自分自身に対しても「それって本当に必要なの?」という疑問に十分答え得る、言葉とロジックが必要です。
❏ 目標の共有なしに、手段についての議論はできない
大きなところで言えば、学校が教育目的に挙げている事柄についても、指導に当たる先生方が、それらを実現することの重要性を、深いところで、且つ共感を持って理解している必要があるはずです。
理解が浅かったり、共感されていなければ、その実現に向けて設計された指導も、徹底されなかったり、ブレが生じたりしがちです。
生徒募集に際して校外に約束してきたことが、現場の先生方の心の深いところまで届いているか、折を見て確かめてみる必要がありそうです。
教育理念や建学の精神などは、広い範囲をカバーする、ときに抽象的な表現が用いられていることが多く、先生方によって解釈が異なる可能性も。その中にどんな価値を見出しているか確かめないと判りません。
❏ あらゆる場面で「そもそも何のため」を質す習慣を
もう少し身近な(?)ところでも、「そもそも」の問いを立てて、きちんと答えを自分は/組織のメンバーは持てているかを確かめてみる必要があるかもしれません。
例えば、「生徒との信頼関係を築く」にしても、なぜ、信頼される存在である必要があるのか、問われたときにきちんとした答えを用意できるでしょうか。(cf. 生徒と信頼関係を構築する)
生徒に宿題を出すときも、「その宿題、本当に必要ですか?」と冷静に自問してみて、エビデンスやロジックが揃わないなら、取り下げるのも選択肢。より重要度の高い宿題を優先することのメリットは大です。
授業において課題解決や対話協働といった学習活動の充実を図るにも、先生方の間で「それらがもたらすもの」への理解が共有されていなければ、取り組みの度合いに差が出てしまうのも当然の帰結でしょう。
生徒に推奨したり、禁止したりする行動についても同様なはず。生徒の立場に身をおいてみて「本当に必要なこと」だと得心できるだけの明快なロジックが整わないなら、伝えるのにもう少し準備が必要です。
❏ マニュアルに拠るときも目的と背景意図まで掘り下げて
根っこの意味/目的を考えずにいると、ついマニュアルに従うだけの行動にもなりがちで、手順の履行が自己目的化するリスクを抱えます。
マニュアルを最初に書面に起こした時には、様々な意図があったはずですが、記述を簡素化する必要もあって、意図そのものや背景にある問題意識まで丁寧に言及、言語化されているとは限りません。
手順を理解しようとするときには、その背後にあるもの(=そもそもの理由)まで、立ち戻って考える必要があります。
当然ながら、マニュアルを説明する側は、目的と背景意図を伝えるとともに、相手の理解と共感を得るだけの明快な論理に裏付けられた言葉を用意して、説明の場に臨むことに力を注がなければなりません。
また、マニュアルがなく、先輩や同僚(ときには自分が中高生時代の先生)の行い/取り組みに倣う場合も、「どうしてこの手順を選択したのか」まで、思いを巡らさないと、形だけのコピーになりがちです。
コピーは重ねるごとに劣化するもの。常に目的に照らしてより良いものを考え出す姿勢、発想と行動をアップデートしていく姿勢を持たないと進歩どころか後退していくことにもなりかねません。
❏ 発想の根っこにあるものから疑い直してみる機会
職業生活に限らず、至る所で「特に疑問も持たず、漠然とそう信じてきた」「これまでそうしてきた」という、論拠を明確にしてこなかった事柄に、考えや行動が縛られていることは少なくないのかもしれません。
ご自身が中高生だったときに体験したことなどは、特に成功体験を伴う場合に、そうした縛りの源になっている可能性もありそうです。
学習指導要領がいくども改定され、そのたびに目指すべき学力観が修正されてきた結果、以前なら通用した(=十分な価値を持ち得た)ことが既にその価値を失っている/失いつつあることもあろうかと思います。
当たり前と思ってきたことが、本当に価値あることだと再確認するためにも、考え方に修正が必要であることに気づくためにも、「本当に必要なのか」「そもそも何のためなのか」を考える習慣が必要です。
突き詰めて考えてみても、明確なロジックが組めないのなら、見方を変えた別のアプローチを模索していくべきかもしれません。その主張を反対の立場からどう論破できるかを考えてみるのも好適です。
本当に必要であることを示し得る自分の答え(言葉とロジック)を備えてこそ、他者(生徒や同僚など)に届くメッセージが編めます。
特に生徒に対しては、まだ経験したことのない道をこれから歩かせるだけに、明快なロジックと適切な表現で、「先生が見ているもの」を正しく想像させていく必要があろうかと思います。
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少し前の新聞で以下の記事を読みました。なるほどと納得するばかりです。手段の是非も、根っこの部分に立ち返って考えてみなければならないと、記事を読んで改めて感じました。
京都府南丹市の園部高で、哲学者で福知山公立大(福知山市)の川添信介学長が「コピペは悪いことか」と題した講義を行った。盗む行為の善悪にまで考えを深め「徹底的に疑う」という哲学の考え方を生徒らが学んだ。(中略)盗みの内容にも「ねずみ小僧」から遊ぶ金欲しさまであり、価値評価の基準は道徳に従うべきとする義務論、社会の幸福につながるかを重んじる結果主義があると紹介。コピペが良いと言える事例は考えにくいとしつつ「何となく悪いと考えることが本当か、一般的な次元に戻って考える」と強調。「生活の中で使えれば考え方を強靱にできる」と学ぶ意義を述べた。
出典:哲学者の学長が高校生に語った深い考え方|京都新聞
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一