3年後に登場する新一万円紙幣に肖像が刻まれることになり、大河ドラマ「青天を衝け」も放送されるなど、渋沢栄一はちょっとした時の人になっています。この4月に放送された「100分 de 名著」を視聴したのをきっかけに「論語と算盤」(角川ソフィア文庫)を読んでみました。
なかなか読みごたえのある一冊ですが、中でも第3章「常識と習慣」に触れられている「智情意」は、多くの学校で教育目標の記述に用いられており、考えさせられるところが多々ありました。
折しも新課程への切り替えが進む中、あらためて「智情意」の意味するところをしっかりと考えてみるのも悪くないと感じた次第です。
同著で読めるのはあくまでも渋沢栄一の考え/捉え方ですが、生徒に教育目標などについて話をするのに「時の人」と絡めてみるのも効果的なアプローチかもしれません。第3章以外に記されていることも、今の時代に通じるものが多く、現代的問題の捉え方に示唆を与えてくれます。
❏ 智(知性)は、教科固有の知識・技能とは別のもの
さて、智情意。最初の「智」について渋沢はこう書きだしています。
人として智恵が充分に進んでおらねば、物を識別する能力に不足を来すのであるが、この物の善悪是非の識別ができぬ人や、利害得失の鑑定に欠けた人であるとすれば、その人に如何ほど学識があっても、善いことを善いと認めたり、利あることを利ありと見分けをして、それにつくわけに行かぬから、そういう人の学問は宝の持ち腐れに終わってしまう。
読んでの通り、渋沢は「学識」と、善悪是非の識別や利害得失の鑑定の土台となる「智恵」とを明確に別のものとしています。
中高生の学習について言えば、各教科に固有の知識・技能は「学識」に当たり、「智(智恵)」はまた別のものとして存在することになりそうです。直接的には、独善に陥らないよう、多様な意見や考えに触れて軸足を作るべき「判断力」などが「智」に当たるのではないでしょうか。
答えが一つに定まらない問題や、賛否の対立を含むイシューを扱う中での対話的な学び(cf. 生徒の答案をシェアして作る学び(相互啓発))や視点を広げ/動かしながら問いを重ねて思考を深めていくこと(cf. 学びの深さ~どれだけ問いを重ねたか)が、知恵を獲得する機会として不可欠だと思います。
❏ 情なしには、智が自己本位に働き、他者に害を及ぼす
また「智」に走ることのリスクについて以下のように述べ、情愛の必要性に触れています。他者の立場に思いをはせ、調和を生み出す心の働きと言ったところでしょうか。
しかし智ばかりで活動ができるかというに、決してそういうものでない。そこに「情」というものを巧みに案排しなければ、智の能力をして、充分に発揮せしむることができないのである。(中略)智恵が充分に働く人は、何事に対しても一見してその原因結果の理を明らかに知ることができ、事物の見透かしがつくのであるが、かかる人物にして、もし情愛が無かったら堪ったものでない。その見透かした終局までの事理を害用し、自己本位をもってどこまでもやり通す。この場合、他人の迷惑や難儀なぞが如何に来ようとも、何とも思わぬほど極端になってしまう。そこの不権衡を調和してゆくものが、すなわち情である。
持続可能な開発目標(SDGs)も、社会を構成するすべての人が情を正しく働かせてこそ達成に近づけるのではないでしょうか。
ちなみに21世紀型能力においても、「生きる力」と直結する外縁には実践力が配され、そこには「人間関係形成力」が挙げられていますが、ここでも「情」の働きは重要な役割を期待されそうです。
❏ 強固な意志、聡明な智恵、それらを調整する情愛
智と情が揃ってもなお、不足するものがあり、それを補うには堅固な意思が必要と渋沢は言っています。
しかしながら情の欠点は、最も感動の早いものであるから、悪くすると動きやすいようになる。人の喜怒哀楽愛悪慾の七情によりて生ずる事柄は、変化の強いもので、心の他の部面においてこれを制裁するものが無ければ、感情に走り過ぐるの弊が起こる。ここにおいてか初めて「意志」なるものの必要が生じて来るのである。動きやすい情を控制するものは、鞏固なる意志より外はない。しかり矣、意は精神作用中の本源である。鞏固なる意志があれば、人生においては最も強味ある者となる。
自分や自分が参画する社会の営みを通じて目指すべきものをしっかり見据える必要があるということだと思いますが、新課程の土台となった21世紀型能力の外縁を作る「実践力」に並ぶ「自律的活動力」や「持続可能な未来への責任」などは、渋沢の言うところの「意」にピッタリとはまるところがありそうです。
一方、情や智が伴わないと、強固な意志は頑固者・強情物を作り、自らの主張の間違いも正せないと付け加えています。
けれども、徒に意志ばかり強くて、これに他の情も智も伴わなければ、ただ頑固者とか強情者とかいう人物となり、不理窟に自信ばかり強くて、自己の主張が間違っていても、それを矯正しようとはせず、どこ迄も我を押し通すようになる。
確固たる意志と言えば、手放しで良いもの/持つべきものと思ってしまいがちですが、この部分を読んでみて、知情意をそれぞれ独立した資質としてバラバラに育むのではなく、三者をバランスよく育て、相補をきちんと働かせるすべを学ばせることが大事なのだと改めて感じました。
ここで紹介したのは、あくまでも渋沢栄一の考え方ですし、いかんせん現代とはかけ離れた状況の中で考えられたことです。現代社会が求めるものに沿って、改めて「知情意」の意味するところを捉え直していく必要があろうと思いますが、その土台/たたき台を得るために、「論語と算盤」を一度読んでみるのも有益なことではないかと思った次第です。
同著の出版は大正5年(1916年)。百年以上前に、新課程で教育界が目指そうとしていることを(一部とは言えど)別の表現で的確に示唆しているのは驚きです。渋沢の「道徳経済合一説」という理念はSDGsで打ち出されてるものとも実によく合致するように思います。
■関連記事:
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一