教科学習指導において、科目に固有の知識や技能を獲得させようとする場合、一つひとつを丁寧に説明して理解させる、所謂「教える」というアプローチのほかに、問い掛けて考えさせたり/体験を再構成させたりする中で「生徒自身に気づかせる」というアプローチがあります。
思考は一定の知識がなければ成立しませんので、「しっかりと教える」ことも指導者として逃れられない大切な責任/仕事ですが、生徒が自分で気づけるようにすることにも同等以上の意識と力を向けるべきです。
日々のご指導の中で、2つのアプローチをどんな比率で用いているか、ときには振り返って点検をしてみるのも良いかもしれません。
2017/03/09 公開の記事をアップデートしました。
❏ 知識を獲得させながら、新たな知を編む方法を学ばせる
教えるというアプローチの方が、単位時間当たりの知識伝達量は多く、一般的な捉え方では「効率に勝る」かもしれませんが、「新たな知を編む方法を学ばせる」には、別のアプローチの併用が必要です。
技術の進歩も社会の変化もないのであれば、あるいは、各教科・科目の学習内容がすべての知識をカバーしているのであれば、既に確立している「知識」を効率よく与えるだけでも良いかもしれませんが、現実にはどちらの前提も成立していないのは明らかです。
対象を注意深く観察し、その特性や成り立ちを見つけ出したり、調べる/考える/話し合うといった活動を重ねて、対象の本質をより深く理解していく姿勢と方法こそが、未来を生きる力になると考えます。
決められた指導時間の中で所定の内容を扱うには、知を編む方法にまで掘り下げた学習を満遍なく展開するのは無理でしょうし、バランスを欠いてどこかに「学びの穴」を作っては、高校までの教科学習の第一義である「認知の網を広く張ること」から遠ざかるリスクも抱えます。
しかしながら、伝達の効率を優先するあまり、教えるというアプローチで押し切ることを常態としては、体験させるべき大切な学びが抜け落ちます。全体のバランスをとるのも、カリキュラムマネジメントで求められることの一つです。(cf. 教科固有の知識・技能を学ぶ中で)
❏ 資料の観察や比較を通じて、背景の仕組みを探らせる
例えば、英語で文法を学ばせるときに、例文を提示し、その成り立ちや仕組み(文法規則)を説明して聞かせ、覚えさせたとしましょう。
該当の項目を学ぶ(=知識を得る)という目的だけであれば、これでも十分に用をなしたことになろうかと思いますが、もう一歩踏み込めば、もっと面白い「知の世界」を体験できるのではないでしょうか。
例えば、不定詞と動名詞の使い分けを学ばせる場面なら、両者を含む例文(注:単文よりも文脈観察ができる「段落」や「対話文」の方が好ましいこともあります)をいくつか並べておき、両者の使い分けがどんな仕組みでなされているか生徒に考えさせてみることもできるはずです。
観察に基づき、ルール(=背後にある仕組み)を仮定させ、そのルールを別の事例に当てはめてみて「正しい結果を予測できるか」を検証するというのは、どの学問領域でも先人が行ってきたことそのものです。
なお、例文が少なくて仕組みの推定に至らないなら、教科書などを読ませ、不定詞と動名詞を含むセンテンス(サンプル)を集めさせてみましょう。似たような場面(=探究活動でサンプルの不足から仮説の検証ができないなど)に遭遇したときに採るべき行動も学べます。
❏ 知の創造の楽しさから、より良い社会を目指す意欲へ
如上の場面を通し、生徒は個々の学習内容の理解を重ねながら、「知を生成するプロセス」の一部を体験していることになるはずです。
様々な教科・科目を学ぶ中で、そこで扱っている知識がどのように生み出されたのか、その工程の一部にでも触れることは、その知識そのものを獲得して活用できるようになるのとは異なる意味を持ち合わせます。
社会の中では日常的に、誰かが「作り出した」知が、様々なチャンネルで「伝達」され、それぞれの場面で「活用」されていますが、次々と新たな課題が生じる中、それらを解決するのに必要な「知」を新たに創り出す(あるいは既存のものを編み直す)力は欠かせないものです。
教科書の内容を学ぶことも「知識の獲得」と呼びますが、実際には既に先人が創り出している(=獲得した)知を伝えているだけであり、意識しないと「新たな知を創出する過程」を教室で経験させられません。
そうした経験の中で、自分の力で何かに気づけた、新しいものの見方ができるようになったという感覚(快体験)は、新たな知の地平を拓いていくことへのモチベーションと自己効力感になり、やがては「より良い社会の実現に向けたエネルギー」に転じるはずです。
❏ 気づきの機会を奪わないよう、不用意な先回りをしない
先生が丁寧に説明してくれることをしっかり聞いて理解していくだけでは、生徒は自分で気づく機会も持てず、その必要も感じないはずです。
問題発見を目的とする観察の場を十分に経験させたり、物事のメカニズムや成り立ちを考える機会(如上の文法学習もその一例です)を持たせたりすることにも出来るだけ時間を確保したいところですし、単元学習の締め括りなどで「ミニ探究」を課すのも好適かと思います。
こうした活動には一定の負荷が掛かりますので、もう少し手軽なところで「問いかけることで気づきを促す」という手も多用しましょう。
問われれば、考えます。考える中でそれまでバラバラだったものが結びつきをもって、新しい気づきが作られていきます。
問い掛けの多い授業が良い授業だと考えますが、「生徒自身の気づき」が生まれる場面を作るという意味でも、「教える前に問いかける」ことには常に十分な意識を向けておきたいところです。
教科学習指導の中で「生徒が自分で気づける機会」を作り、確保することの大切さは、ここまでに書いた通りですが、他の指導場面(生活、進路など)でも同じことが言えるのではないでしょうか。
生徒が自分で気づけるようになってこそ、この先の人生において正しい選択を重ねられる(自律的に活動できるようになる)のだと考えます。
所謂「指導」が必要な場面でも、小言を並べるより、問いを投げかけ、そこで考えたことを言葉にさせることで自分の中にあるものを整理させていく方が、狙った効果に近づけることが多いような気がします。
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一