教科学習指導で、その科目に固有の知識や技能を獲得させようとする場合、一つひとつ丁寧に説明して理解させる、いわゆる「教える」というアプローチのほかに、作業をさせたり、問いかけて考えさせたりする中で「生徒自身に気づかせる」というアプローチがあります。
思考は一定の知識がなければ成立しませんので、「しっかり教える」ことも大事であり、その責任から逃れることはできませんが、生徒が自分で気づけるようにしていくことにも同等以上の重要性があるはずです。
日頃の指導の中で、2つのアプローチをどんな比率で用いているか、ちょっと振り返ってみるのも良いかもしれません。
❏ 知識の獲得と、知識の導出
教えるというアプローチの方が、単位時間当たりの知識伝達量は多く、一般的な捉え方で言えば、効率に勝るかもしれませんが、「知識を生み出す方法」を学ばせるには、もう一つのアプローチも併用する必要があります。
技術の進歩も社会の変化もないのであれば、あるいは、各教科・科目の学習内容がすべての知識をカバーしているのであれば、知識を与えるだけでも良いかもしれませんが、現実に照らせば、いずれの前提も成立していないのは明らかです。
高校での教科学習指導は、大学での学問や専門家の研究ではありませんので、一つの単元に過剰なエネルギーを注ぐと弊害が大きくなります。
バランスを欠いて、他の教科・科目を十分に学べなければ、高校までの学習で第一義とすべき、「認知の網を広く張ること」から遠ざかるリスクも抱えます。
しかしながら、伝達の効率を優先するあまり、いつも前者のアプローチで押し切っては、体験させるべき大切なものが欠け落ちるのも事実。効率とのバランスを取りながら、後者も経験させていきたいものです。
❏ 資料の観察や比較を通じて、背景の仕組みを探らせる
例えば、英語で文法を学ばせるときでも、文法の知識そのものを解説して、例文とともに覚えさせたとしましょう。
その項目を学ぶという目的に照らせば、これで十分に用をなしますが、もう一歩踏み込むと、もっと面白い「知の世界」を体験できるのではないでしょうか。
不定詞と動名詞の使い分けを学ばせる場面なら、両者を含む例文(注:単文よりも文脈観察ができる「段落」や「対話文」の方が好ましいこともあります。)を一定量並べて置き、両者の使い分けはどのような仕組みになっているかを考えさせることもできるはずです。
観察した結果に基づき、ルール(=背後にある仕組み)を仮定させ、そのルールを別のケースに当てはめてみて「正しい結果を予測できるか」を検証するというのは、どの学問領域でも先人たちが行ってきたことそのものです。
❏ 自分で何かをなし得た達成感が次へのモチベーションに
如上の場面を作れば、生徒は一つの文法項目を学びながら、知を生み出すプロセスの一部を体験していることになりますよね。
自分で何かに気づけた、新しいものの見方ができるようになったというのは、ある種の快体験でもあり、次の学びに向けたモチベーションにもなり得ます。
様々な教科・科目を学ぶ中で、そこで扱っている知識がどのように生み出されたのかを知ることは、その知識そのものを覚えて使えるようになるのとは違った意味を持ちます。
より深いところで理解の根っこを作れるので、獲得した知識も、応用できる範囲が一段と広くなるのではないでしょうか。
❏ 不用意に教えてしまうことが、気づきを妨げる
先生が丁寧に説明してくれることを、しっかり聞いて理解していくだけでは、生徒が自分で気づく機会はなかなか作り出しにくいのではないでしょうか。
如上の「ミニ探究」のような場面を作るほかに、もう少し手軽に進めるなら、「問いかけることで気づきを促す」という手もあるはずです。
問われれば、考えます。考える中で、それまでバラバラだったものが結びつきをもって、新しい気づきが作られます。
問い掛けの多い授業が良い授業だと考えますが、「生徒自身の気づき」が生まれる場面を作るという意味でも、「教える前に問いかける」というのは常に意識しておきたいことの一つだと思います。
❏ 教科学習指導以外の場面でも同じことが言えるのでは?
ちなみに、生徒指導でも、面談でも、同じようなことが言えるかもしれません。
先生からメッセージを発するばかりでなく、生徒が言葉を発することで自分の中にあるものを整理させていくことに注力した方が、狙った効果に近づけることが多いような気がします。
面談が苦手とおっしゃる先生は、生徒に何を伝えれば良いのかに意識が偏っていないでしょうか。言葉を引き出してこそ、課題の根っこがつかめ、解決に向けた知恵も出ようというものです。
繰り返しで恐縮ですが、学習者として生徒自身が体験すべきものを、不用意に先回りして肩代わりしていないか、時々振り返ってみる必要があると強く感じる今日この頃です。
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一