現行課程における学力の第2要素は、ご存じの通り「思考力・判断力・表現力等」です。理解していることやできることを使って未知の状況に対応する力を指しますが、こうした能力と資質を育もうとする以上、その意味するところをきちんと定義/言語化しておく必要があります。
言語化できない状態では、指導を通じて目指すべきところ(指導目標、評価基準)も曖昧なままでしょう。能力資質の獲得を目指す場/評価の機会としての学習活動の選定・設計も、中途半端なものになります。
また、明示的な目標(評価基準)を校内で共通認識にしなければ、指導の方向性も取れず、評価との一体化もままなりません。思考力や表現力は教科に固有の学習活動とも結びつけやすく、イメージするのも比較的容易ですが、少しばかり厄介なのは「判断力」ではないでしょうか。
2020/11/17 公開の記事を再アップデートしました。
❏ 判断力とは何か、という問いへの答えを校内で共有する
改めて「判断(力)って何?」と聞かれても、すっとは答えが出ないもの。様々な捉え方があり、「これが唯一の正解」という定義は難しいでしょうが、少なくとも校内では何らかの答えを共有したいところです。
仮に、「判断とは、多様な意見や考えを理解・評価した上で、より良い行動を選択しようとするときに行うもの」と定義するなら、そうした場面を学びの中に作り、育成と評価の機会とする必要が生じます。
こうした学びの場を経験する中で、生徒は、必ずしも「唯一の正解」を求めるのではなく、他者との違いを尊重しつつ、自分の答えを根拠を持って説明できることが大切であるとの学びも得ていくと思います。
共有された「定義」に基づく授業観が広まれば、各教科の学習や体験の中でも、生徒が「多様な意見や考え」に触れ、その背景まで理解を深めた上で、対立や競合に落としどころを見つけたり、納得解を導き出したりする経験を積ませる指導の場が広く用意されていくはずです。
ある特定の科目/単元の中でしかこうした学びを経験できないケースと各教科で違った角度から同様の学びを蓄積できるときでは、判断力の獲得にも大きな違いが生じるのは容易に想像できること。ある場面で学んだことが別の場面で「重ね塗り」されることの効果は大です。
❏ 判断に至るまでのプロセスに着目した育成と評価
正しい選択/判断かどうかは、それを行った瞬間にはわかりません。その後の結果で正しかったかどうかが明らかになるもの。状況(環境)が変われば、選択の結果も変わるので、ときに「予想」も困難です。
これを踏まえれば、どんな結論(結果、答え)を導き出したかを観察するだけでは、生徒の「判断力」を評価できないことは明らかでしょう。
しかしながら、以下のような「選択のプロセス」についての妥当性・好適性なら、結果と切り離して評価することができるはずです。
「選択/判断に至るまでに情報をしっかり集めたか」
「矛盾することがらを前に合理的な対処ができたか」
「問題を正しく切り分けて考えることができたか」
「選択肢の一つひとつに結果とリスクを十分に想定したか」
プロセスに分けて評価を行えば、踏まなかった手順や見落としも特定できますので、次に進む前に不足を補い、より良い選択にも近づけます。
各教科の学習の中で「解内在型の(=既に解法が確立しており、正解も決まっている)問題」を扱っているときにも、最終的に得た答えが正しかったかどうかだけではなく、「解に至るまでに重ねた選択(判断)が好適なものだったか(何が欠けていたか)」を捉えていきましょう。
思考・判断・表現の力の定義に付されている「未知の状況にも対応できる」という条件も、課題解決までに積み上げる様々な判断が適切な手順を踏んで行われたかを評価し、改善を重ねさせてこそ達成できます。
❏ 判断に至るプロセスを不用意に肩代わりしない
判断に至るプロセスを生徒が実地に踏んで、そこでの試行錯誤から正しい方法を学ばせていくには、先生方が不用意に先回りして結論や正解を示さないことが大切になると思います。
「〇〇の公式にあてはめれば答えが出せるよね」
「検証のために、この実験をしてみよう」
「解決策Aでは、こういう弊害があるからBを選ぶしかない」
といったことを、生徒自身が考える前に先生が提示してしまうのを繰り返していては、生徒は「正しい判断に至るプロセス」を自分で経験できず、正解に至る工程を立案する練習機会も失われてしまいます。
ときには、先生方がモデルを示してプロセスを学ばせるべき場面もあるでしょうが、生徒自身が考え、経験する場をできる限り多く作ることに重きを置いた方が、育成は着実に進むでしょうし、如上の「判断力」を生徒が発揮する様子を「観察・評価する機会」も持ちやすくなります。
段階を踏みつつ「プロセスに焦点を当てた問い」を重ねることで、判断に至るプロセスを生徒に経験させていきましょう。人類には既知でも、生徒には初めて対峙する「未知」の課題。不用意な先回りは禁物です。
❏ 学習内容に応じて作る、判断力育成の場
日々の教科学習指導の場でも、生徒が何らかの判断をすべき/できる場面は至るところにあるはずです。それらを見逃さないよう十分に意識して、「判断力の育成機会」を確保していきましょう。
初めて解決策/解法を考える課題や問いには、生徒は様々なアイデアを出してくれるでしょうが、「色んなアイデアがでましたね」と終了にしては、発想力は膨らんだとしても判断力は鍛えられていません。
それらが妥当なものか確かめるにはどうすれば良いかを考えさせたり、ほかのアプローチはないかあれこれ調べてみたりするところに導くことにも力を向けていきたいところです。
・正解や解法が一つに決まらない問題を扱うとき
賛否が対立する論点(イシュー)を持ち出して教材を学ばせるときなどは、生徒に判断を求め、その力を育む場面としてまさに好適。
問題の背景を広く深く知り、そこに関わる人々の多様な立場を理解しないことには、思い込みに走った独善的な判断/選択しかできません。
公民の授業などでは、異なる立場の人が書いたものを読み比べて、読んで理解したことに基づいてディスカッションをしたりする場面は日常的なものだと思います。保健や家庭でも身近な問題を扱います。
多様な意見や考え方を知ることが判断を行う前提であることを学ばせることそのものが、判断力を獲得させていくときの起点になるはずです。
国語や英語で作品を読むときも、登場人物の言動に思うところがあるでしょうし、歴史や地理を学ぶときだって、そこに登場する人々の行動や選択には、立場の違う人々の思考を窺うチャンスが転がっています。
ディスカッションの中で、他の生徒の考えに触れ、自分の考え方に欠けていたものに気づくこともまた、より良い判断ができるようになるための大切な準備。学習内容に合わせてそうした機会を設けたいものです。
・解内在型の問題を扱うときにも
何らかのタスク(作業を完了したり、課題を解決したり)に取り組む中で、見通しを立て途中の工程・手順を考案するときにも、生徒は判断力を駆使することになり、そこには育成と評価のチャンスがあります。
工程全体を構成する要素が同じであっても、配列の仕方によって、効率も違えば出来上がりも変わり得るもの。そうしたことを学ぶチャンスは芸術科目での制作や、体育での練習計画づくりにもありそうです。
要素の選択や配列がもたらす結果をできる限り予想して、好ましくない選択肢を除外していくのは、まさに「判断」ではないでしょうか。
数学で解法を考えたり、理科で実験方法を考えたりするときも、生徒は多くの判断を行い、その力を少しずつ獲得しているはず。先生方の「不用意な先回り/肩代わり」でその好機を奪わないようにしましょう。
❏ 不明解消や予復習の履行にも判断力を発揮させる
授業や宿題、予習・復習に取り組むときや、わからないことがあった場合にどうすれば良いか考えるのだって、小さいながらも立派な「判断」の機会。生徒の疑問に答え、不明を解消してあげるのも、不用意なやり方をしては、判断力の育成を遅らせるかもしれません。
やらなければならないこと(宿題など)とやりたいことがあって、限られた自分の持ち時間の中にそれらをどう配列するかを考える/決めるときにも判断を行っていることになります。先送りできないことを後回しにしてしまうようでは、良い結果をもたらす判断とは言えません。
言うまでもありませんが、解決に使える手札(知識や理解)を増やすことも、判断を行うときの選択肢を増やすことにほかなりません。教科書や参考書に載っている考え方や様々な方法をしっかり学ぶこともまた、判断力を育む準備ということだと思います。
繰り返しになりますが、判断力を発揮すべき場を設けることが、育成と評価の場面を作ります。学びをデザインするときは、生徒が判断する場をいかに作り出していくかも忘れないようにしたいところです。
生徒が思考を重ねて判断する前に、先生が正解や解法を提示してしまうと、生徒は「失敗から学ぶ機会」を持てません。安全が確保されている教室の中でこそ、そうした「学び」を十分に経験させておきましょう。
失敗から学ばず、同じ過ちを繰り返すのは、振り返りによるメタ認知・適応的学習力の獲得が進んでいないから。失敗も成功もきちんと振り返りを行えば、そこで考えたこと/気づきが学びに構成されます。
また、進路選択の過程で育む「選択の力」は、より良い未来を選び出す力(=生きる力)そのもの。どの進路を選んだか(加えて、それを実現できたか)も大事でしょうが、とりあえずの選択を許さず、判断力(=より良い選択をする力)を育むことにこそ指導の主眼を置くべきです。
教育実践研究オフィスF 代表 鍋島史一