教員側の主導で進める講義形式、学習者を主体とする支援者としての役割、協働学習など、様々な授業観があり、前の時代の主流であったスタイルは何となく否定される傾向があるように感じます。しかしながら、それらはどれか一つを「選択」するものではなく、その場の必要に応じて使い分けられるべきものであり、最適なバランスの中で組み合わされるべきものだと考えます。
❏ 教員主導、学習者主体、協働学習、…
今回の公開授業&研究協議を見ても、「学習者が主体的に取り組む」という目的を充足した授業であっても、ひとつのスタイルに固まっているわけではありません。
教えるべきことをしっかり教える場面、それを使って考えさせる場面、頭の中で作ったもの表現する場面、他の生徒の成果に触れて刺激を受け直すべき場面、・・・学習の中には局面ごとに様々な必要があり、それぞれに最適な方法を、意図的・戦略的に切り替えていくことにこそ「最適解」があるのではないでしょうか。
❏ 真面目で学力の高い生徒が集まっているから?
学習者側での活動量がきわめて高い、こうした授業を目の当たりにした参観者である他校の先生方からは、生徒の学力や意欲の高さを評価する感想も多く聞かれました。
確かに、授業内での指示に対しての高レスポンスや、難易度の高いタスクへの対応力などからは、優秀な生徒が集まっているのははっきりと伝わってきますが、入学者が優秀なだけでは、あれだけの授業は作れません。入学以来積み上げてきた学習の成果そのものが、ああした学習者集団、教室を作っているのだと感じます。
たとえば、グループディスカッションにしても、優秀な生徒を集めればそれだけでは「お見合い」も生じますし、議論がかみ合わないまま険悪な雰囲気を残して授業が終わることだってあり得ます。入学時から、先生方が重ねてきた適切なファシリテーションの結果が、あのような授業を成立させていると考えるべきだと思います。
❏ 指導の成果で、可能になった授業
グループディスカッションに正しく参加できるということは、きちんと準備をして、相手の意見を聞き、その上に論理を組みたて、適切に表現するという様々な技能・姿勢を身につけていることを意味します。他校の先生が、両国高校で行われているのと同じような授業を自校の担当クラスで行おうとしても、すぐにできる保証はありません。
しかしながら、今できないからと言って、将来もできないと考えるのは不合理です。
そうした資質や姿勢を育む機会が、それまでの学習経験の中になかったからと考えるなかに可能性が見いだせるのではないでしょうか。逆に、いずれはできるだろうと漫然とその時の到来を待っていても、資質形成の機会を失うだけです。
卒業時までにできるようになってほしいことを明確にイメージし、「今の段階で欠けていることは何か」、「どのような機会を用意すればそれを身につけさせることができるのか」を常に考え、実践に移していくことが重要です。その中で生徒の成長を目の当たりにできれば、まさに教師冥利に尽きるというものです。
授業を担当された先生方からは、「地域から特に優秀な生徒たちに集まってもらい、言ってみれば小学校の各クラスで学級委員を務めるような生徒が構成するクラスを任されているので、ここでしかできない授業を提供しなければ申し訳が立たない」という責任感を、そのお言葉や授業の中に感じました。この責任感(矜持)が、如上の成果を作り出しているものと拝察いたします。
その3に続く